宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

縄文人の職住分離に学ぶ復興策 ~学ぶシリーズ(1)~         2011.6.28 日本経済新聞記事より

2011年08月31日 | どうなる復興計画

「松島湾は縄文時代と同じ風景を今も見ることが出来る全国でも貴重な地域だ」という言葉で始まるこの小論記事からは後述する記事の抜粋以外にも教訓とすべき事柄がある。忘れないうちに先にコメントしておこうと思う。

 

 

「景観」


縄文人ならぬ(?)宮古人はまずこの冒頭の言葉(=景観)から、宮古湾一帯の風景を想起すべきである。閉伊崎から白浜、赤前,湾内をずっと回って宮古港、浄土ヶ浜、蛸の浜、松月海岸、田老など南北にどこまでもつづくリアス式海岸である。私の場合、とくに松月海岸については、見渡して(といってもほんの小さい入り江であるが…)どこにもコンクリートの工作物が目に入らない唯一の海岸として大いに気に入っているし、多くの宮古人がその事を知っていて気に入り、気にかけ、心配している海岸である。宮古市の他の浜も海岸も名勝地としての価値はじゅうぶんにあるが、残念ながらコンクリート人工物がどうしても目に入って松月浜のような太古感のある浜は他にない。平安時代も同じ風景だったろうナ、というより空気感が同じだったろうナとつねづね思っていた松月浜は、いま内山氏の小論でとつぜん私の脳裏に浮かんだのである。というのも、記事でも書いているように内山氏は「景観論」を研究テーマにしているそうで、景観の変化している仕組みをベースに、環境学や歴史、考古学などの分野にかかわっている。くわしくは分からないが、景観とは単なる観光や景色でない事は分かる。太古の、縄文の、平安の、そして江戸や明治期の、各時代の景観が、どんどん変わってきた事は又だれでも分かる事である。その是非はともかくとして、直近の時代の景観観はあまりにもひどすぎる。観光や漁業や流通や港湾工事、一言では経済的利害によって景観は滅茶苦茶に変えられた。そのような時流の中で、鍬ヶ崎地区を囲む6.5メートル高のコンクリートの防潮堤計画ほど無神経なものはなかった。鍬ヶ崎地区の古色蒼然とした街並やどこからでも海を望む多彩な景観はそこでは一顧だにされていなかったばかりか、今になってみると鍬ヶ崎地区のほど良い景観を分断する野蛮な暴挙と言ってよかった。
公共の名の下に一握りの人間が、一握りの経済的利益のために、景観をぶちこわす事態に人々は鈍感になっている。津波被災のプロセスに景観無視のプロセスがなかったか? 又、被災からの復興に景観無視のプロセスが再び存在するのでは? と反省に立つ必要がある。景観の背後にある市民の数々の権利に今こそ気付かねばならない。

景観ということを念頭に入れて、それでは本題である日経記事を抜粋要約(全文の約1/3)してみよう。縄文人のニーズと、現代人のニーズが接近していることがわかると思う。

 
 

 


国立歴史民俗博物館「縄文人の展示」ー音楽好きな中年プログラマブログよりー

 

災害免れた松島の貝塚
──縄文人の自然や暮らしの思想を復興策に──

内山純蔵(総合地球環境学研究所準教授)





 松島湾岸に点在する貝塚遺跡の現状を調べるため宮城県を訪れた。…2日かけて現地を回ってみると、縄文時代の貝塚遺跡は無事だった。地図参照



「職」と「住」が分離


 松島湾は縄文時代と同じ風景を今も見ることができる全国でも貴重な地域だ。縄文時代の海面は現代より3~5メートル高く、海岸線は大きく異なっている。だが松島湾周辺は縄文時代以降海面が下がるのと同じペースで地盤が沈下したため、海岸線が変わっていない。

 この周辺の貝塚は地図上では海岸沿いにあるように見える。しかし、実際は標高15~30メートルの高台にあり、今回の大津波の被害を逃れた。縄文時代の集落の大半は、このような海と山の”接点”にあり、発掘しても地震を除けば大災害の被害は見当たらないのが特徴だ。

 もっとも、縄文人が防災を考慮していたとは必ずしもいえない。狩猟、漁労、木の実拾いと、より多くの仕事場に行きやすい場所に住んだだけだ。自然に「広く薄く」依存し、いわば職住分離だったことが災害に強い”まちづくり”につながったのだろう。

 対照的なのが弥生時代以降の集落だ。… 

 弥生時代に農耕が始まると、水田適地や交易拠点など特定の場所に多大に投資して、「狭く濃く」利用するようになる。生活の中心と仕事場も一致。生産性は上がったが、災害には弱くなった。まさに「一所懸命」だ。しかも、何度も同じ災害に見舞われる傾向がある。

 
人の力の限界を意識


 縄文時代と弥生時代以降では自然観が大きく異なる。その象徴が貝塚だ。集落のすぐ隣にあり、墓地として遺体も埋葬された。
 縄文人の世界は、人間の力の及ぶ範囲(この世)と及ばない範囲(あの世=自然)で構成されていた。遺体もゴミも等しく「あの世に旅立つモノ」だった。貝塚に投棄する際は「送り出す」儀式を行ったのだろう。
 狩猟や出産の際は、逆に「迎え入れる」儀式を行った。調理も儀式の一つ。縄文土器の実用性を無視した装飾は、あの世から来た食材がこの世に迎え入れられるため、姿を変えつつある過程を表現していると思われる。この送り迎えの価値観は、自然に依存する狩猟採集民ならではの思想だ。食料を自ら栽培するようになった弥生時代以降は「自分たちで全て処理できる」と思い込むようになった。

 
地に足付けた景観へ


 今回の震災のような1000年に1度の事象を考えるのは、長いスパンで物事を見る考古学者や歴史学者の役割だ。人々が悲しみを乗り越え、地に足を付けた景観をどう造っていくのか見つめ続けることが、大事な仕事だと考えている。

 

 
 
 
 


景観は大自然との対話であり、己のよってきた遠い過去、己の現在・未来のアイデンティティそのものである。その事に気づき、一段高い復興の切り口にしなければならない。

景観にもとるものの無効性を言うべきである。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (1)
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