国家領土の水際といわれる東京都沖ノ鳥島での領土拡張工事に人身事故が発生、原因も定かでなく国内外から後ろ指を指されている。領土保全の野望にその施工技術が追いつかなかった、と…
写真は30日台船から引かれ傾いた事故桟橋。この後桟橋は裏返しに転覆、
犠牲者がでた(国交省関東地方整備局提供~ web 毎日新聞より 2014.3.30)
世界から後ろ指
国土の番人である国土交通省にそのような技術がないままに国是の工事を民間の業者連合に丸投げしてまかせたところに事故の原因があったとしなければならない。事故の事ではないが国交省は工事を管理する事なくただ見守っている。なんという事だろうか?! 事故の主な責任は国にあると言わなければならない。工事を発注した国土交通省関東地方整備局の松永康男港湾空港部長は30日、会見で「想定外という言葉が適当か分からないが、通常あり得ないことが起きた」と漏らしたという(web 産經新聞 30日)。このかたは日常何を考えて仕事をしているのだろうか?
無責任工事の落とし穴
国発注の工事であれば、自社設計、自社施工の工事であっても、名目的総括責任は国にあるから工事事業者も安心である。ある程度の冒険も出来る。今回の事故は、その国発注のお墨付き工事であるというところに大きな弛みが生じて、設計瑕疵、施工プロセスの陥穽は生じたものと見なければならない。発注側の人が大筋事故原因が分からないばかりか公に無責任発言を軽言するという事に、我が国の今日の責任非存在の現実を見る思いがする。発注側、受注側にこのようにけじめも矜持もなく、ただの仲良しクラブ状態。責任の所在が風に吹かれた風船のようにふわふわ中空を舞っている。
設計・施工の丸投げ方法は津波防災施設も同じ
沖ノ鳥島の事故は公共工事の無責任性の現出であったが、事故の発生もさることながら、公共工事のイージーな諸免罪の悪循環が今この国に蔓延し、また蔓延しようとしている。免罪とは公共工事の免罪、つまり刑事的責任も、民事的責任も問われないという公(おおやけ)そのものと、それをかぎ出し、それを頼り、そこに突き刺さっている民間業者の弛緩した精神構造である。いわば東日本大震災で大きく明るみに出た公共工事のなるべくして崩壊したコンクリート防災施設と同じ精神の構造である。施設崩壊の無罪・免罪が次世代施設建設に悪影響を及ぼしている現実がある。これからの復興施設もなるべくして崩壊するであろう。
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多彩になった公共工事受発注
かって公共工事(工事にかぎらないが)は官によって設計、見積もられ、その後入札にかけられて受注者が決められた。官の指示した工事の本筋、細部によって工事は進められて、検査を受けて完成と見なされた。発注、受注者の責任分野は明確であり、違反者は激しく罰せられた。
今は、アイディア提案とか、ロビー活動、プレゼンテーション、コンペティションという事で、設計そのもの(目的、技術、効果、コンセプト、ポジショニング)から、工事そのもの(工事の発見、工事の発掘、都市計画、国土計画、列島改造など)まで、いわば自由に「入札」(提案)できる事になって事態は大きく変わったのであった。関わる民間も、官庁側も優秀な人材を揃えて対処しているが欠けるものが大きく、人身事故、工学的事故、刑事・民事事故は増えるばかりである。
しかし昔と違って、工事は厳しい「経過検査」を受ける事もなく、完工施設が崩壊しても「想定外」の理由で罰則を免れているように見える。まるで免罪符を束ねている官僚に民間の業者が群がる構図である。
追いつかない技術綜合論や設計倫理思想
構想や技術、受発注業務が多彩になる事で国内の工事は大いに活性化されたが官の設計部隊、技術部隊、実務部隊がそれに追いつかない事態が始まっているともいえる。官は指導監督するのではなく見守るだけになった。どこかで管理責任のプロセス(倫理)が切れ、丸投げ状態の工事が多くなっている。民間は適時責任を負い、任意で責任を返上している。公共工事の悪しき連鎖がつづいている。公共工事は本質的には無責任工事となっている。
この無責任サイクルから抜け出すには(1)軽視されている納税者の参加(アンガージュ)復活あたりと(2)技術綜合論や設計倫理思想の入門というあたり(3)徹底した公開化・オープン化政策あたりから始めなければならないだろう。なにしろ私が見聞した限り岩手県沿岸の震災施設復興の設計図は、ほとんどが「朝三暮四」的旧施設そのままの復旧(宮古市田老)、国土交通省の官僚「マニアル」丸写し(釜石市)、土建業業界の「自然災害の手引き」本(田老)、メーカー・企業等の「浸水シミュレーション」(岩手県、宮古市)をそのまま使っている。冗談でなく復興したとたんに台風で再崩壊した防波堤さえある(山田町)。いずれも国交省管轄、県土整備部管轄…