来し方を振り返る時。奇妙な感覚をおぼえる、『あの時って本当にあったのだろうか?』『あれは本当に今の自分と同じ自分だったろうか?』
そしてふと芝居の事を思い出す、『人間は何故芝居をするんだろう?』 さらに文楽を思い出す、『何故わざわざ人形を操るのだろう?何故自分たちが直にやらないんだろう』
そして閃く・・・『もしかしたら俺の人生を味わってみたい何者かが人形を操っているんじゃなかろうか?その人形が俺と勘違いしているんじゃないか?もしかしたら俺は人形かもしれん』
さらに閃く、・・・創世記には神が人を創ったと書いてある。もしかして神は人間なるものがどういう思考や行動をするか実験してみたくてアダムやエバを創ったんじゃなかろうか?【神は土で人を創りそれに命の息を吹き込んだ、すると人は生きた魂になった】・・・文楽人形を作ってそれを舞台で動かすのと同じじゃないか。鏡の中で尤もらしい顔をしている奴、電池が切れたらたちまちゾンビになる。
【此の世は芝居なんだ】【自分と言う特別な人は実際には居ないんだ】、と言う事に人は無意識では気がついている、知っているんじゃないか?だからその真似をしている。いや、強迫的に確認している。
【此の世は幻想なんだ、事実じゃないんだ、芝居なんだ】と自分に言い聞かせているんじゃないか?
ところで間もなく、人間の生命維持を担っている電池が再び充電される時が来るらしい。黙示録を読んでいるとそのように読める。