例えば1ページ分の英文は全部読まなければ何を書いてあるか分からない。
それは論理脳を介して解釈される。
しかし1ぺージ分の和文は【視覚的に直に、瞬時に】解釈される。論理脳を介せずに無意識領域に入って来る。
随って思うに、耶蘇教が表音文字の世界で集大成されたその欠陥が【あらゆる物事を言語化】する、且つその所産としての【偽善、欺瞞】、言論によって黒をも白に出来ると言うバカらしさを産んだと思う。
一方、仏教は表意文字の世界で集大成された。昔、中国の修行僧が茶店の婆さんに『・・・寺はどう行けばいいですか?』と聞いたら婆さんは『莫直去』、つまり真っ直ぐ行け、と答えた。しかし見ると道は曲がりくねっている。修行僧は逡巡した。それを見た婆さんは『何じゃそのよたよたした有様は』と笑った。
しかしこれを読むあなたは『ははあ、こういうことを言ってるな』と薄々分るはずである。そしてそれは正しい、正しいが言語化出来ない。直に腑に落ちるのだ。