伊勢雅臣先生のメルマガより
■1.全国で5万校以上の小学校を作る「学制」の計画
伊勢: 花子ちゃん、今日はちょっとしゃれた野球帽をかぶっているね。前に「150」と刺繍があるけど、それは何の意味?
花子: これは、一昨年、私が地元の小学校を卒業した時に、PTAの会からの記念で貰った帽子です。ちょうど、その年は開校150周年だったんです。
伊勢: へえー、150周年と言ったら、明治の初めの頃の創立だね。
花子: 明治6(1873)年です。その時は、お寺の本堂が校舎で、村の子供たち数十人を集めて授業をしたそうです。
伊勢: そうか、確か、その前年、明治5(1872)年に「学制」という法令が出され、明治政府はもの凄い数の学校を一斉に作り始めたんだ。全国を8つの大学区に分けて、それぞれに大学を1校設ける。そして各大学区に32の中学校を作るから、合計で256校。そして一つの中学校区に210の小学校。小学校の総数は、256掛ける210で、なんと合計53,760校となる。
小学校は全国津々浦々、子供たちが歩いて通える範囲で、およそ600人の地域に小学校を一つ作る、という計算で、当時の人口が3千万くらいだから、やはり5万校は必要となる。
花子: そんなに多くの学校を一気に作ろうというのは、凄い計画ですね。
伊勢: 本当だね。しかもこれは大風呂敷ではなくて、相当、真剣に実行された。「学制」施行2年後には、小学校はその計画の半分近くの2万4千校が出来ていたという。花子ちゃんの卒業した小学校も、その一つだね。
文科省の『学制百五十年史』によれば、小学校の規模は一校当たり教員1~2人、児童40~50人程度、校舎の40%は寺院、30%は民家を転用したもので、「概して寺子屋と大差ない形態であった」[文科省、p28]という。
しかし、考え方として大都市に上流階級の子弟向けに少数の立派な学校を作るのではなくて、粗末でもいいから、村々の子供たちがみんな通えるよう、全国津々浦々に学校を作ろうという方針は、当時の人々の深い見識を現していると思う。「学制」の序文では、その方針をこう語っている。
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今後、一般の人民、すなわち華族、士族、農工商、および婦女子に至るまで、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」、すなわち村に学校で学ばない家はなく、家の中に学校に学ばない人はいない事を目指す[伊勢現代語訳]
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■2.欧米先進国と肩を並べて義務教育を導入した「学制」
花子: これは当時の欧米のどこかの国の真似をしたのですか?
伊勢: それがどうもそうではないらしいんだ。「学制」のある研究書では、こう書かれている。
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一八七二年の段階で、これほど大規模な公教育制度を完備した国はあまりなかったので、「学制」が欧米人に大きな衝撃を与えたのも無理なかった」[竹中、p283]
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最先進国のイギリスですら、「学制」の2年前に「基礎教育法」が定められたけど、制度の整備、無償性、強制修学などの点で不十分なものであったし、「全ての子どもに、読み、書き、算の十分な基礎教育を与えることは、親の義務である」と謳った「基礎教育法」が定められたのは1876年と「学制」の4年後だった。
「学制」の前に、義務教育制を採用していたのは、結局、アメリカのいくつかの州に過ぎない。それも義務とは言え、抜け道も多く、罰則の適用もかなり疑わしい状況だった。
日本の「学制」による義務教育制度を報じたボストンの新聞では、アメリカの工場で多くの子供を働かせているのは、教育を義務と考える風潮に乏しく、両親たちの金銭欲、あるいは養育放棄が原因と指摘している[竹中、p284]。こういう史実を見ると、日本は「学制」で当時の欧米先進国と肩を並べて国民の義務教育制度を導入した、と言っても良さそうだね。
■3.教育面では欧米より進んでいた江戸日本
花子: 江戸時代というと、日本は欧米先進国からはだいぶ科学技術でも、政治制度でも遅れていた、という印象ですけど、なんで、教育面だけ、そんなに進んでいたのですか?
伊勢: これは江戸時代の長い平和の間に、農業、工業、商業、流通が発展し、それに民衆が対応できるよう、教育が普及していたからだろう。幕末の頃は寺子屋は全国で約1万もあり、読み・書き・そろばんだけでなく、道徳、古典、地理、農業など、7千種もの教科書が作られたと言われる。幕末に来日した西洋人も、女中や肉体労働者までが読み書きができると驚いている。
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JOG(997) 世界最高の教育水準が実現した農村自治
年貢納めまで自主的に行っていた農村自治は、世界断トツの農民の読み書き能力が支えていた。
https://note.com/jog_jp/n/n61babf6a557b
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伊勢: 武士も250以上の藩のほとんどで藩校を作り、統治階級として教育していた。幕府公認の朱子学だけでなく、陽明学や国学などを学ぶ場もあった。商人も石門心学、農民も二宮尊徳の報徳思想、さらには学者たちの蘭学も盛んになった。
西欧では戦争ばかりしていたので軍事技術が発達し、また植民地主義で大船建造技術や産業革命は進んでいたけど、一般国民の教育という面では、江戸時代を通じて長い平和を享受していた日本の方がむしろ先行していたと思う。「学制」の大規模な学校創設の計画も、こうした江戸時代からの蓄積があったからこそではないかな。
伊勢: 花子ちゃん、今日はちょっとしゃれた野球帽をかぶっているね。前に「150」と刺繍があるけど、それは何の意味?
花子: これは、一昨年、私が地元の小学校を卒業した時に、PTAの会からの記念で貰った帽子です。ちょうど、その年は開校150周年だったんです。
伊勢: へえー、150周年と言ったら、明治の初めの頃の創立だね。
花子: 明治6(1873)年です。その時は、お寺の本堂が校舎で、村の子供たち数十人を集めて授業をしたそうです。
伊勢: そうか、確か、その前年、明治5(1872)年に「学制」という法令が出され、明治政府はもの凄い数の学校を一斉に作り始めたんだ。全国を8つの大学区に分けて、それぞれに大学を1校設ける。そして各大学区に32の中学校を作るから、合計で256校。そして一つの中学校区に210の小学校。小学校の総数は、256掛ける210で、なんと合計53,760校となる。
小学校は全国津々浦々、子供たちが歩いて通える範囲で、およそ600人の地域に小学校を一つ作る、という計算で、当時の人口が3千万くらいだから、やはり5万校は必要となる。
花子: そんなに多くの学校を一気に作ろうというのは、凄い計画ですね。
伊勢: 本当だね。しかもこれは大風呂敷ではなくて、相当、真剣に実行された。「学制」施行2年後には、小学校はその計画の半分近くの2万4千校が出来ていたという。花子ちゃんの卒業した小学校も、その一つだね。
文科省の『学制百五十年史』によれば、小学校の規模は一校当たり教員1~2人、児童40~50人程度、校舎の40%は寺院、30%は民家を転用したもので、「概して寺子屋と大差ない形態であった」[文科省、p28]という。
しかし、考え方として大都市に上流階級の子弟向けに少数の立派な学校を作るのではなくて、粗末でもいいから、村々の子供たちがみんな通えるよう、全国津々浦々に学校を作ろうという方針は、当時の人々の深い見識を現していると思う。「学制」の序文では、その方針をこう語っている。
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今後、一般の人民、すなわち華族、士族、農工商、および婦女子に至るまで、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」、すなわち村に学校で学ばない家はなく、家の中に学校に学ばない人はいない事を目指す[伊勢現代語訳]
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■2.欧米先進国と肩を並べて義務教育を導入した「学制」
花子: これは当時の欧米のどこかの国の真似をしたのですか?
伊勢: それがどうもそうではないらしいんだ。「学制」のある研究書では、こう書かれている。
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一八七二年の段階で、これほど大規模な公教育制度を完備した国はあまりなかったので、「学制」が欧米人に大きな衝撃を与えたのも無理なかった」[竹中、p283]
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最先進国のイギリスですら、「学制」の2年前に「基礎教育法」が定められたけど、制度の整備、無償性、強制修学などの点で不十分なものであったし、「全ての子どもに、読み、書き、算の十分な基礎教育を与えることは、親の義務である」と謳った「基礎教育法」が定められたのは1876年と「学制」の4年後だった。
「学制」の前に、義務教育制を採用していたのは、結局、アメリカのいくつかの州に過ぎない。それも義務とは言え、抜け道も多く、罰則の適用もかなり疑わしい状況だった。
日本の「学制」による義務教育制度を報じたボストンの新聞では、アメリカの工場で多くの子供を働かせているのは、教育を義務と考える風潮に乏しく、両親たちの金銭欲、あるいは養育放棄が原因と指摘している[竹中、p284]。こういう史実を見ると、日本は「学制」で当時の欧米先進国と肩を並べて国民の義務教育制度を導入した、と言っても良さそうだね。
■3.教育面では欧米より進んでいた江戸日本
花子: 江戸時代というと、日本は欧米先進国からはだいぶ科学技術でも、政治制度でも遅れていた、という印象ですけど、なんで、教育面だけ、そんなに進んでいたのですか?
伊勢: これは江戸時代の長い平和の間に、農業、工業、商業、流通が発展し、それに民衆が対応できるよう、教育が普及していたからだろう。幕末の頃は寺子屋は全国で約1万もあり、読み・書き・そろばんだけでなく、道徳、古典、地理、農業など、7千種もの教科書が作られたと言われる。幕末に来日した西洋人も、女中や肉体労働者までが読み書きができると驚いている。
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JOG(997) 世界最高の教育水準が実現した農村自治
年貢納めまで自主的に行っていた農村自治は、世界断トツの農民の読み書き能力が支えていた。
https://note.com/jog_jp/n/n61babf6a557b
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伊勢: 武士も250以上の藩のほとんどで藩校を作り、統治階級として教育していた。幕府公認の朱子学だけでなく、陽明学や国学などを学ぶ場もあった。商人も石門心学、農民も二宮尊徳の報徳思想、さらには学者たちの蘭学も盛んになった。
西欧では戦争ばかりしていたので軍事技術が発達し、また植民地主義で大船建造技術や産業革命は進んでいたけど、一般国民の教育という面では、江戸時代を通じて長い平和を享受していた日本の方がむしろ先行していたと思う。「学制」の大規模な学校創設の計画も、こうした江戸時代からの蓄積があったからこそではないかな。
写真は可睡斎の雛飾り

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