伊勢雅臣氏のメルマガより
すでに人気作家の
地位を築いていた石原氏が、
なぜ政治の道に足を踏み入れたのか。
■1.強さと優しさと、
どちらが本当の石原慎太郎氏なのか?
今年の2月に、
石原慎太郎氏が逝去されました。
石原氏の足跡で、
強く心に残っていることが二つあります。
一つは、2012年に
尖閣列島を東京都が購入すると発表して、
寄付金を募り、
賛同する国民から10万件以上、
15億円近い寄付を集めたこと。
その2年前に
中国漁船が海上保安庁の巡視船に
体当たりしたのを
国民からひた隠しにし、
なおかつその船長を釈放してしまう、
という民主党政権の法も国際常識も、
そして一国の体面も
無視したやり方[JOG(701)]に比べて、
石原氏の強いリーダーシップを感じました。
同じように感じた人が多かったので、
これだけの寄付が集まったのでしょう。
もう一つは、東日本大震災で
福島第1原発冷却のための
放水作業を行って無事帰還した
東京消防庁
ハイパーレスキュー隊員139名の面前で
深々と頭を下げ、涙声で
「本当にありがとうございました。
この国の運命を決めてくださった」
と語った姿です。[TOKYO MX]
当時、隊員らに出動を命じた
消防総監はこう証言しています。
「知事は決して『やれ』とは命令しなかった。
『本当に大丈夫か、
できるならやってくれ。頼む』と。
隊員への気遣いを感じた」[産経、R040201]
この時には、
菅直人氏にまつわる舞台裏も
語られています。
__________
だが、実は石原氏は
首相官邸からの隊派遣要請を
いったん断っている。
菅氏に隊員を預けると、
どんな危険で無謀な任務を
強いられるか分からないと
判断していたのだった。
このときは結局、菅政権では
物事を動かせないとの
事務方の相談を受けた安倍晋三元首相が、
石原氏の長男である
自民党の石原伸晃幹事長(当時)を
介して説得し、石原氏も
最終的に派遣要請を受け入れた。
[産経、R040203]
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こういう点にも、石原氏の
消防隊員たちを思う優しさを感じます。
しかし、尖閣諸島を
寄付金を募って東京都で買ってしまおう
という強さと、
隊員たちを心配する優しさとが、
同じ人間のなかで
どのように同居しているのか、が、
もう一つ、ピンと来ませんでした。
どちらが本当の石原氏なのか、と。
■2.「殺された若い警官に
世間の同情が向かぬという風潮は狂っている」
『国家なる幻影 わが政治への反幻想』には、
もう一つ、石原氏の優しさが
よくわかるエピソードが語られていました。
昭和44(1969)年の学園紛争の頃です。
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日大での騒動で殉職した
西条という若い巡査部長は
建物と建物の間の
わずか五十センチの通路を走り抜ける時、
五階の屋上から落とされた、
花壇を壊して作った煉瓦のついたままの
重さ十キロのコンクリートブロックを、
躓(つまづ)いて倒れた部下を助け起こそうと
盾を外してかがんだ頭に受けて亡くなった。
その近くの教室の黒板には、
石の礫(つぶて)を警官に命中させた者には
煙草一本、怪我させた者には五本、
殺した者には一箱と書いてあったそうな。
ある記事でそれを読んだ私には、
新婚間もなく幼い乳飲み子を残して
殺された若い警官に
世間の同情が向かぬという風潮は
狂っているとしか思えなかった。
そこで当時警視庁にいた
友人の佐々淳行氏に諮って、
仲間の志も集め私が代表して
西条巡査部長のお宅を見舞い、
残された未亡人と
幼い遺児の写真を添えて
週刊誌の『女性自身』のグラビアとして
掲載してもらった。
当然世間の耳目は遺族たちに集まり
同情の声も高まり、
それが他の機動隊員の励みにもなった。
そしてそれが引き金にもなって
民間企業の有志たちが
醵金(きょきん)し合っての
『機動隊を励ます会』が発足し
今日まで続いている。[石原H13、1497]
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10キロのコンクリートブロックを
警官の頭上に落とす過激派学生の冷酷さは、
「どんな危険で無謀な任務を
強いられるか分からない」
菅直人元首相の非情さと、
根は一緒です。
左翼思想が人間に対する
思いやりを失わせる、というのは、
世界の共産主義国で
例外なく起こっている
人民虐殺からも明らかです。
「新婚間もなく幼い乳飲み子を残して
殺された若い警官に
世間の同情が向かぬという風潮」も、
それだけ世の中が
左翼思想に染まっていたからでしょう。
■3.「働いている人間たちの努力を、
国家のためなのだから使い捨てにしてもいい」!?
このエピソードには、続きがあります。
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・・・ある時佐藤総理に
それら(伊勢注: 上記の警官へのお見舞い)の報告も兼ねて、
見れば総理の代沢の私邸から
官邸までの途中の淡島通り脇に、
殉職した西条巡査部長の所属とは違うが
第三機動隊の本部があるのだから、
一度是非立ち寄って
簡単でいいから国を代表して
彼等を激励されてはどうかと献言してみた。
前にも記したが総理は
立ちどころにうなずいて、
ついでに、
「そんなことをなんで今まで
誰もいってこなかったのだ」、
むしろ急に不興そうだった。
翌日すぐに佐藤総理は
往路第三機動隊に立ち寄って
隊員たちを激励感謝してくれた。
すぐ後に佐々氏から電話が入り、
「あれはあなたからの献言と聞いたが、
お陰で他の機動隊をも
もの凄く勇気づけました。
心から感謝します」
ということだった。[石原H13、1508]
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優しい心を持っているからこそ、
こういう事も気がつくのでしょう。
このエピソードを、
石原氏は次の言葉で締めくくっています。
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機動隊員に限らず
働いている人間たちの努力を、
国家のためなのだから
使い捨てにしてもいい
というような認識がもしあるとするなら、
それにのっとった
いかなる手段方法も
人間として生きている国民の
どんな共感を得ることもありはしまい。
[石原H13、1518]
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「働いている人間たちの努力を、
国家のためなのだから
使い捨てにしてもいい」どころか、
反革命分子は殺してもよいとするのが、
左翼思想の非人間性です。
人情に厚い石原氏は、
そういう思想、風潮を
「狂っているとしか思えなかった」のです。
■4.「自分の国家と民族の未来についての
無関心さにショックを受けた」
石原氏の政治家としての
自伝とも言うべき『国家なる幻影』は、
昭和41(1966)年当時、すでに
「日本で一番高い原稿料を貰って流行作家」
だった氏が、
なぜ政治家の道に足を踏み入れたのかを
語るところから始まっています。
__________
その年の暮れに、読売新聞からの依頼で、
クリスマス休戦時のベトナムに
取材に行くことになりました。
「いずれにせよ
あの時あのベトナム行きの
申し出を引き受けたことこそが、
私にとってのことの始まりだった」
[石原H13、68]
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石原氏は、
クリスマス休戦に入る前に、
米軍のヘリで前線に出ました。
まだ戦闘中で、
石原氏の乗ったヘリも
地上からの銃撃を受けましたが、
無事でした。
ヘリが目的地の町に近づくと、
そこで思いがけない光景が見えてきました。
__________
鉄条網の張り巡らされた陣地の
すぐ隣の小学校の庭で、
女の先生の指揮で子供たちが
バスケットボールに興じていた。
ヘリの爆音に加えて
すぐ脇からは殷々(いんいん)たる銃声が
響いているのに、
その一つ隣の校庭には
一見平和で楽しい学園風景があるのだった。
ヘリは子供たちの
頭上をかすめるようにして
舞い降りていったが、
子供たちの誰も振り仰きもしなかった。・・・
ひとことにしていえばそれは、
南ベトナムの大方の大衆国民の
あの戦争に対する無関心さだった。
[石原H13、125]
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この無関心さは大衆国民だけでなく、
迫り来る共産主義の非人間性を
察知している知識人たちも
共有していました。
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しかしそんな彼等の、
何より大切なはずの自分の国家と
民族の未来についての、
もはや慨嘆を超えて
強く装われた無関心さに
私はショックを受けた。
そしてこの国は近く間違いなく
北側との戦いに敗れて共産化され、
ベトナムとしては
滅びるだろうと確信していた。
[石原H13、266]
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この確信は7年後の1973年、
米軍の撤退により、
現実のものとなりました。
その結果、共産軍の支配を逃れようと、
30万人とも言われるベトナム人が
ボートピープルとなって
南シナ海に逃げ出し、
その多くが海の藻屑と
なってしまいました。
■5.「自分の国家と民族の未来についての無関心さ」
は他人事ではなかった
石原氏がベトナム人に見た
「自分の国家と
民族の未来についての無関心さ」は
他人事ではありませんでした。
「私はそこに私の故国日本との
強い類似を見た気がした」のです。
__________
日本の現況に明らかに存在はしてい
る瑕瑾(かきん)を声高に咎(とが)めて
止まない手合いの数が
ますます増えて行った時、
さらに下手をすれば
この国が案外にもろくも
躓いてしまう可能性は決してない
とはいえないかも知れない、
という気がしてならなかった。
[石原H13、266]
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そう思って過去を振り返ると、
石原氏には思い当たることが
多々ありました。
たとえば、
1960年の安保改訂のおりです。
__________
日本の代表的な作家たちが
構成している文芸家協会の総会だか理事会で、
当時の理事長の丹羽文雄丹羽文雄氏が
その日の協議案件が
すべて終わってしまったので、
「世間もあのことで
いろいろ騒がしいようですから、
我々もついでにここで
安保反対の決議をしておきますか」
ともちかけ、
出席していた尾崎士郎氏と
林房雄氏に反論され
提案の論拠も説明出来ずに
恥をさらして引っこめたなどという
滑稽譚が他にいくつもあった。
[石原H13、345]
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こういう経験を振り返ると、
ベトナムのように日本が
「案外にもろくも躓いてしまう可能性」が
胸を占めていきました。
そして石原氏はこう思ったのです。
__________
そんな心配をするのならば
それを防ぐ手だてを
自ら何も尽くさずにいられるものなのか、
と自分を問いつめるように
私は思うようになっていったのだ。
[石原H13、420]
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これが、政治の世界に
足を踏み入れたきっかけでした。
■6.子孫の運命への切実な情があるからこそ、
卓越した戦略性も生み出されてくる
日本人の「自分の国家と
民族の未来についての無関心さ」の典型が、
占領軍によって制定された
日本国憲法をいつまでも
そのまま抱いていた事だったでしょう。
__________
なぜこの国、そして日本人は
ここまでおかしくなってしまったか。
それは根本的なこと、
もっとも肝心な問題から
目を逸らし続けてきたからです。
その最たるものが、
占領軍によって押し付けられた、
醜い日本語で綴られた
日本国憲法にほかならない。
[石原H30、1362]
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「醜い日本語で綴られた日本国憲法」
とは、こういうことです。
__________
例えば多くの問題を含む
九条を導き出すための前文
『平和を愛する諸国民の
公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を
保持しようと決意した』という文言の
「公正と信義に信頼して」の一行の
助詞の『に』だが
これは日本語としての慣用からすれば
あくまで『を』でなくてはならず
誰かに高額の金を貸す時に
君に信頼して貸そうとは言わず
君を信頼してのはずだろう。
さらに後段の
『全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ』云々の
『から』なる助詞は
『から』ではなしに
慣用としては「恐怖『を』免かれ」
のはずだが
英語の原文の前置詞が
fromとなっているために
『から』とされたに違いない。
[石原H30、2186]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
憲法と言えば、
一国を運営していくための
国民が取り決めた政治の根基です。
そして、
その精神を述べたのが前文です。
その前文が外国人に書かれた
外国語の訳文として、
おかしな文章になっている。
これをほとんどの人が気がつかない、
気づいても問題にしない。
写真は後楽荘の生け花
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