死生観とは、
死ぬことを見つけたりと言う向きもある・・・
葉隠武士の心情だが、
おこがましくもそこまで言い切るつもりはない!
朝、ふと過ぎったので書いてみるまでである・・・。
はっきりしていることがある。
それは、
誰一人、生まれて、生きて、そして、死んでいくと言うことである。その間が、人生である。
<愛しきものたち。taninoyuri.exblog.jpさんより、拝借!>
その間、どう考えて生きているかが、死生観と言うことになる。それによって、生き方が大きく違ってくる。違って見えると言うことではなく、本人にとって、生きると言うことが楽しいのか、哀しいのか、嬉しいのか、嫌々なのか、軽やかなのか、しんどいのか・・・いろいろ違ってくるのである。
又、生き甲斐を感じているのか、やるせない思いで居るのかが違ってくる。
諸行は無常であるから、何一つとして永遠なるものはない。
だから、大切なものを失うと、誰しも哀しみに暮れる。特に、この度の未曾有の震災などは、不条理な別離を味わうこととなり、不幸感は並大抵のことではあるまい。
それほどの事はないにしても、大小問わず、似た様なことは多々ある。これからもあるであろう。そうした時に、哀しみや、悲しみを味あわない事は到底無理である。
だからといって、不幸とは言えない。
それを不幸とすると、人生は不幸を前提に成り立っていることになる。
そうではなく、出会いや、家族の出現や、出生などで新たな仲間が加わることは、無常の喜びと、誰しも感じるであろう。その織りなしを考えれば、人生は五分五分という事になるから、強(あなが)ち一時のことでは、判別が付かないものだ。
しかし、
そうした幸せの絶頂感も何時までは続かない。又、その絶頂感が高ければ高いほど、喪失感も大きいと不安なる。今が良ければ、未来が不安になるものである。
こうしたことは、誰にもあることで避けることは出来ない。
こういう世界を相対世界と名付けることが出来よう。人生はすべからく、この相対世界の法則の中に投げ込まれた様なものである。
それに一喜一憂していたら、定まりなき思いの人生と言うことに成るのである。
定まりなき思いは、人生観とは呼べない。ましてや、死生観などと呼ぶには、相応しくない。
死生観というのは、相対的な人生を達観する見方だと思われる。
つまり、一つの大局観であって、浮き沈みや、幸不幸を乗り越えた心の置き所を探すことを言うのである。
そんなことを考えていると、相対的な人生と別に、永遠の人生が必要になる。又、そういう自分を探している事になる。はたして、本当の自分は、偶然に生まれて、生きて、死んでいく存在であろうか? と自問自答している自分が居る。
現代は、唯物的思考が中心なので、死生観が成り立ちにくいのである。
昔は違っていたであろう。
例えば、武士などは、戦士であるから、死を前提に生きている存在である。個々の認識はそれぞれであろうが、典型的な武士は、当然すぎる話で、死ぬまでに何をするかで、人生の価値が決まる。それが滅私奉公であるとする場合もあるであろうし、武勲をもって人生の花とする場合もあろう。
とにかく、全ては死を前提としている。だから、『武士道とは、死ぬことを見つけたり』と、断言する人も出でる。
やっぱり、それは今も同じである。
死ぬまでが人生であるのであるから、その間に何が出来るかを考えないと死生観は生まれないし、それがないと心の置き所は生まれない。
死は、何時来るかは、はっきり言って分からない。今、元気で有頂天でいても、一陣の無常の風は吹けば、この世の中から消えるのである。この法則は、誰にも共通している。
私は、別だという人は、一人としていない。
で、
死は、この世から消えるが、私自身は消えないと考えるしかない。つまり、不滅の生命というものを前提としなければ、死生観は持ちようがないのである。
昔の人と、どこが違うかと言えば、それのあるなしだ。武士は、「七生報国」を掲げたものも居る様に、自分というものが今生限りと思っては居なかったのである。
つまり、永遠の生命があって、今生はその一つに過ぎないと考えている。当然、来世もあるのである。過去生もないはずがない。その中で、七回の生を通じて、国(主君)のために報いると言うのが、「七生報国」の意味である。
単なる信念であるにせよ、あるいは、便宜上の考え方にせよ、それがなければ死生観は生まれようがない。死生観のない武士など、物騒な刃を持った盗賊と何ら変わりのない人間に過ぎない。
これは、現代も同じで、武器こそ持たないが、死生観のない人間は浮き草の様なものである。良いときには笑い、悪いときには泣く。そして、常に不安に駆られる存在なのである。
幸せとは何であろうか? 幸せを「仕合わせ」とも書く。つまり、何かの対面である。心の中の対面である。それを嬉しいと感ずるか、あるいは、不都合なものとして感ずるか、それは対面する心の状態によって、明らかに違ってくる。
世の中には、必ずしも、幸せと感じない人々が如何に多いかを痛感する。特に、現代の日本人はそうである。それは永遠の物差しを失って居るからだと思われる。
自分が、永遠なる者との考えがない。回りの全てがそうである様に、自分も刹那的な無常のものだと考えている。そう思うのである。
それも自由であるが、少なくとも死生観は生まれないのである。
人生観と言って、大言する向きも多いが、それは単なる目標設定で、今生限りの目標設定であるから、本当の人生観とは言えない。死を前提にして大観しないと本当の人生観は生まれないのである。
本当の人生観は、死生観のことを言うのである。
さて、
理屈はそこまでとし、私のことについて書こう。
私は、死は全ての終わりではないと考えている。単なる通過点にすぎないと考えている。当然の事ながら、生はドラマの開演と考えている。その意味では、死はドラマの終演である。
<火星の現れた人間?!>
相対的な無常の出来事は、人生のドラマの舞台装置であり、且つ、主演を自分と考えれば、共演者である。悪役も居れば、そうでない役もいる。シナリオは自分である。時には、相手が主演である場合も考えられるので、シナリオが変わる場合もある。
しかし、常に主演は自分であろうと考えている。相手もそうであるかも知れないが、そんなことは関係がない。それは相手の主演活動を決して邪魔する意図はないからだ。
出来れば、相手が主演者として立ち回ることに、協力することはせよ、邪魔する意図はないからだ。みんなが主演者として志向していることを、自分もそうであるから尊重することに努める所存だ。
しかし、あくまでも自分が主演者であるとの立場は変えない。
そのドラマは、喜怒哀楽、波瀾万丈であることを拒否しない。その方が面白いからである。だからといって、その中にテーマを見いだすことに傾注する。只、喜怒哀楽、波瀾万丈では、ドタバタ劇で、意味を見いだせないのである。
テーマは、死生観に基づいている。故に死生観は不可欠なのである。
ドラマは、やがて終演を迎えるのであるから、終わるとき意義あるものと思いたいものだ。それは成長である。自分は永遠の存在であるから、成長は不可欠だ。
成長とは何であろうかと考える。
成長とは見方の変化であろう。見方とは観方でもある。観るとは心で見ることだから、そういう字を当てるのであるが、死生観(人生観)の成長を意味している。
今生は、この死生観を持って、様々なドラマの中に生きているのだ。だから、そのドラマの喜怒哀楽、波瀾万丈は死生観を反映したものだ。別の死生観を持った人からすれば、少しも波瀾万丈ではないかも知れない。
その人には、別のドラマが必要だろう。たまたま、必要あって遭遇している刹那の共演者として立ってくれていた共演者だ。言わば、助力者であったのかも知れない。
<井口ブログより拝借:宇宙に浮かぶ龍?!>
しかし、いずれにせよドラマが終われば、観方が変わるのである。これが成長だ。
そのための人生だ。今生の人生のテーマが死生観(人生観)だ。様々な死生観(人生観)を持つ人々の坩堝が、今の相対世界の人生だと思っている。これほど貴重な機会はないのである。
やり果せた人生は、満足だろう。そして、深い眠りにつくだろう。いや、眠りにつくなどとは到底思わない。厳しい査定があるだろう。それは自らの査定だ。眠っている暇などないのである。
それが死である。別名、往生という。
永遠の観点からすれば、今と言うときは、永遠の中の限りない微分値に過ぎない。そんなものは夢の中の夢である。