草むしりしながら

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冬の思い出

2024-01-27 16:13:41 | 草むしりの幼年時代

冬の思い出

 当地は昔から七島井(しっとうい)と呼ばれる、畳表の材料になる植物の栽培が盛んでした。

 以前はどこの農家でも栽培していましたが、ほとんどの農家がやめてしまいました。我が家も私が小学生の時くらいまでは栽培していました。

 止めてしまったのは植え付けから製織まで、すべての作業が手作業だったことも大きな原因のように思えます。

 七月の末ごろからの刈り取り、分割、乾燥作業のことは、以前同じカテゴリー内の「真夏の夜の思い出」に詳しく書いたことがあります。今でこそ懐かしい思い出ですが、当時は過酷と表現した方がいいような重労働でした。

 そして仕事はそれで終わりではなく、畳表に製織する仕事が待っているのです。製織の作業を担うのは主に女性で、我が家でも母の仕事でした。

 当時畳表の製織作業のことは「筵を打つ」(むしろをうつ)と言い、製織機は筵機(ムシロバタ)と呼んでいました。そして時期は主に冬の農繁期でした。ただしどれも記憶がおぼろで、はっきりとしたことは覚えていません。

 学校から帰ると母は土間で筵打ちをしていました。筵機は布を織る機織り機を縦にしたような造りになっていて、縦糸が麻で横糸が乾燥させた七島井で、布を織る要領で筵を打っていくのです。

 カウンターチェアーのような足の高い椅子にこしかけて、二枚の板を交互に踏んで機(はた)を動かして製織します。

 足で板を踏むところが、室内で歩行運動をするときの足踏みステッパーによく似ています。この足踏みステッパーは15分踏むと50Kcal消費しますが、筵機の方は畳表を織るほどの大きな機ですから、それを動かそうとするともっと力がいったのではないでしょうか。

 たぶん筵打ちも足踏みステッパーと同じ有酸素運動だと思います。その頃の母の写真を見ると痩せています。やがて電気のモータがとりつけられ、座っているだけで製織ができるようになりました。

 ちょっとした産業革命ですね。おかげで作業がはかどったのか、母は筵を打っていないときは、編み機の前に座って毛糸の服を編んでいました。冬の時期の母といえば、筵機か編み機の前に座っているというイメージがあります。

 打ちあがった畳表は十枚をひとまとめにして丸められ、縄で括っておりました。それが何個かたまると業者が来て買って行きました。

 当時の農家にとっては貴重な現金収入でした。母が嬉しそうな顔をしていたのを覚えています。

 この業者のことを当時は筵買い(むしろかい)と呼んでいました。家に来るのは近所の人でちょっと面白い人でした。でも筵の買い付けの時は、いつもと違って厳しい顔をしていました。車輪が前に一個後ろに二個ついた、三輪車型の小さなトラックに乗っていました。

 家が七島を作らなくなった頃その人もやめてしまいました。たぶんその頃どこの農家もやめてしまったのでしょう。

 さてこの七島井ですが、当地でしか栽培されていない貴重な品種の植物です。出来上がった畳はとても丈夫で、柔道畳として広く利用されてきました。東京オリンピックの柔道会場にも使われました。

 このような優れた特性をも七島を絶やしてならないとう強い志の下、今でも数件の農家が栽培していています。また七島井は七島蘭(しちとうい)として知的表示保護制度に登録されています。



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