草むしり作「わらじ猫」 前1
㈠裏店のおっかさん ①
掘割を吹き渡る風が冬の気配を運んできた。昼間のあいだは小春日和の暖かさだったが、日が西に傾き始めたとたんに風向きが変わった。おなつの住む裏店にも冷たい風が吹きぬけ、雨雲をつれてきた。開け放されていた長屋の戸が一斉に閉じられた。おなつが妹のおみつと、弟の幸吉の手を引いて長屋の木戸をくぐったころには、あたりはもう薄暗くなってきた。
お酉さまの市が始まるころには江戸の町も寒さが本格的になってくる。今年は三の市まであるので火事が多いだろうと、大人たちが話していた。湯屋を出たころにはポカポカとしていた体が、ちびた下駄を履いた爪先から冷えてきた。いつもなら井戸端で噂話に余念のない長屋のおっかさんたちも、この寒さで慌てて家に戻ったようだ。薄暗闇のなか表戸の閉じられた長屋は、いつもと違ってなんだか少しよそよそしかった。
木戸から路地に向かって風が吹き抜け、軒下に吊るされた誰かが取り込み忘れた洗濯物を、ふわりと揺すった。吹き溜まりに集まった落ち葉がカサカサと乾いた音を立て、井戸の奥に祭られたお稲荷さんの祠(ほこら)の奥で、何かがチラリと動いた気がした。おみつと幸吉の手をにぎり締めると、おなつは慌てて家に向かって走っていった。
後ろから何かに追いかけられている気がして、おなつは家の戸を思いきり引いた。
「おっかさん、急に寒くなったよ」
ただの薄暗闇を怖がってしまったのが照れくさくて、大声で母親に声をかけた。とたんに家の中がぱっと明るくなった。母親のお松が行灯に火を点けたようだ。
「ちゃんと肩まで浸かったのかい」
行灯を覗きこんだままお松が答えた。背中に負ぶった赤ん坊が振り返ると、言葉にならない言葉をなにやら喋り始め、少し湿気た家の中は暖めた味噌汁の匂いが漂っていた。おなつはなんだかホッとした。
家の中は思ったより暖かかった。まだ昼間の暖かさが残っているのだろ。それでもおみつと幸吉は姉のおなつの真似をして「寒い、寒い」と母親にまとわりついた。
「おお、やけに寒くなっちまいやがったな」
少し遅れて父親の甚六が家に入ってきた。
「なんだよ、もう冷めちまっているじゃないか。ちゃんと肩まで浸ったのになぁ」
言い訳がましく甚六が子どもたちに声をかけた。
おなつたちは甚六に連れられて湯屋に行ったのだが、のんびりと自分だけ長湯に浸かる父親を待っていられずに、先に帰ってきたのだった。
「明日はおっかさんが連れてって、ちゃんと肩まで浸からせるからね。さっさっとおまんま食べて寝ちゃいな。湯冷めするよ」
お松は温めた汁を子供たちによそい、甚六には燗のついた徳利を渡すと背中の赤ん坊を降ろした。
「ありがてぇな」
甚六は猪口に手酌で酒を注いで、旨そうに飲みむと目を細めた。向かいに座ったお松は、自分の茶碗の中の冷や飯に温かい汁をかけて赤ん坊に食べさせている。
赤ん坊は母親の持っている小さな匙(さじ)に興味があるようだ。手を出して匙を握ろうとしては、出した手を跳ね退けられていた。
「ほらちゃんと食べないと、おっぱいやらないよ」
お松が赤ん坊の口もとに匙を持っていくたびに赤ん坊が手を出すので、思うよう食べさせることが出来ないのだ。
「おっかさん、代わるよ」
赤ん坊はおなつに抱かれると、急におとなしくなった。おなつが慣れた手つきでさじを口もとに持っていくと、今度は素直に口を開けて食べ始めた。
「竹坊はおなつ姉ちゃんが好きだね」
茶碗の汁かけ飯を食べ終わった赤ん坊は、今度はお松に抱かれて乳を飲んでいる。乳を吸いながら目をつぶり始め、眠ったのかと思えばまた目を開け、慌てて乳をすい始める。するとすぐにまた目をつぶる。何度か繰り返すうちに口から乳首が外れて、すやすやと寝息を立て始めた。
赤ん坊に乳を飲ませながら、あらかた夕飯を食べ終えていたお松は、赤ん坊を座布団に寝かせると、空いた飯茶碗になみなみと白湯をそそいで、ゆっくりと飲み干した。
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