草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」前3

2020-01-23 07:11:03 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前3 

㈠裏店のおっかさん③

 甚六が木を削る音に混じって、パラパラと雨粒の落ちる音が聞こえだした。
「おや雨だよ。明日はきっと冷え込むだろうね」
 両親の話し声が遠くに聞こえ始め、おなつはスーと眠りに引き込まれそうになった。

「………」
 なんだろう。何か聞こえた気がした。ぼやけた意識が急にはっきりとしてきた。
「おっかさん、何か鳴いているよ」
「まだ起きていたのかい」
 お松は呆れた顔をして耳を済ませた。
「なにも聞こえやしないよ」 
「いや、なんか鳴いているな。うんあれは猫かな」
 そろそろは仕上げに掛かっていた甚六が呟いた。

「おっかさん、あたいちょっと見てくる」
「駄目だよ、濡れちまうじゃないか。ほっときゃ親が連れに来るよ」
 おなつも一旦は諦めて目を瞑るのだが、猫の鳴き声が耳について寝られない。仕事の出来栄えが良かったのだろか、行灯の灯りに照らしてさじを眺めていた甚六も猫の鳴き声が気になるようだ。

「ねぇ、おっかさん、おとっつぁんお願い」
「なんだか声が弱ってきたな。こりゃいけねぇ」
 甚六が肩にはおっていた半天を頭から被ると、雨の中に出ていった。
「しょうがないね」
 お松はあきらめたようにつぶやくと、まだ火種の残った七輪に、新しい炭を足した。
 おなつは戸口の前に立って、目を凝らしなら甚六の後ろ姿を見ていた。暗闇の中に父親の姿がぼんやりと浮かびあがっていたが、やがてその姿が見えなくなった。ポタポタと落ちる雨音がやけに大きく聞こえてきた。やがてその雨音を打ち消すように甚六の足音がだんだんと近づいてきた。

 猫は長屋の井戸の奥の、小さなお稲荷さんの祠の中にいた。誰かがいたずらをしたのだろうか、鼻緒の切れたわらじがが片方だけ置かれてあった。猫はその上に座っていた。冷たい土の上よりも、わらじの上のほうが少しは暖かかったのだろうか。やっと目が開いたような小さな猫だった。
 
 甚六が懐から出してやると、仔猫は力なく鳴いた。雨に濡れた毛が体に張り付き、頭の上から尻尾の先までずぶ濡れで、小さなあばらが見えていた。
「おいで」
 おなつは思わず仔猫を手に取った。仔猫の体からおなつの手にドクドと波打つ胸の鼓動が伝わってきた。
「まだやっと目が開いたばかりだよ。捨てられたのかね」
 
   おなつはカンカンに熾った七輪の中の炭に仔猫を当てながら、乾いた布で濡れた毛を拭いてやっていた。雨に濡れて体に張り付いた毛は炭火で乾かされ、柔らかな産毛が膨らんできた。その横でお松と甚六が仔猫を覗きこんでいる。

「乳がほしいんじゃないか」
「ああ、そうだろうね。けどね、いくら何だってあたしのをやるわけいかないし」
 お松は両手で胸を押さえて言った。
「おや、綺麗な毛並みだね」
 お松は思ったよりも猫が綺麗なので、気をよくしたようだ。残った飯に湯を入れてお粥に炊きなおしていた。ブクブクとあぶくが立ち、飯粒が柔らかくなりトロトロとしてきた。お松はそのトロトロとした重湯の部分を貝杓子ですくい取ると、淵の欠けた茶碗に注いだ。

「今夜はこれで我慢しておくれ。明日どこかに子ども産んだ猫はいないか、太助さんに聞いてみるから」
 お松は残りご飯で炊いたお粥をフゥフゥと息を吹きつけて冷まし、小指の先につけて仔猫の口元に持っていった。すると仔猫は戸惑って顔を背けてしまった。それでもあきらめずに仔猫の口もとに重湯をつけてやると、舌を出して舐め始めた。味が分かったのだろうか、今度は重湯のついた指先をペロペロと舐め始めた。よっぽど腹が空いていたのだろう。すぐに指先の重湯を舐めてしまい、もっとくれとばかりにニャーニャーと鳴き始めた。

「おっかさん、あたいにもやらせて」
 おなつが小指の先に重湯をつけて仔猫の口元に持っていくと、仔猫はすぐに舐め始めた。しばらくするとおなつの指を咥えて吸い始めた。
「わぁー、吸い付いた」
「ほら指を引っ込めちゃ駄目だよ。この猫はね、きっとおなつことおっかさんだと思っているんだよ」
―あたいのことをおっかさんだって。
 そう言われると手を引っ込めるわけにもいかず、そのままにしていた。ザラザラとした猫の舌の感触に最初は驚いたものの、懸命に指に吸い付く猫を見ているうちに、おなつの心に温かなほんわりとする感情が沸いてきた。なんだか不思議で、戸惑ってしまうような気持ちの高まりだったが、やがて仔猫を心から可愛いと思うようになっていた。

 おなつが眠くなったのと、仔猫が満腹になったのはほとんど同じだった。
「後はおっかさんがやっとくから、早く寝ちまいな」
 おなつは這うようにして布団に潜りこんだ。とたんに意識が薄れていった。
「この猫、足の裏の肉球に黒いところがあるだろう。こういう猫は鼠を取るのが上手いんだ」
「でもね、こんな小さいんじゃ、反対に鼠に食われちまうんじゃぁないかね」
 おとっつぁんとおっかさんが話している声が遠くで聞こえて、おなつはそのまま深い眠りに落ちていった。

 


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