子供がズルをして目的を達しているのを見て、
親として、これも処世術として容認してしまう、もしくはいいこととして積極的に評価する人達がいる。私は間違っていると思う。ただ形としての目的は達成しているが、本来の目的はほとんど達成していない。それよりも、不正な手段でもって形だけの目的を達成したことにして知らんぷりしている態度はどう考えても許されるものではなく、強烈に指導して猛省を促す必要があると思う。この機会を見逃したら、これ以降このような考えが定着し、これが当たり前となり、バレさえしなければ永久にこの処世術を繰り返すこととなる。そのような大人をあちこちで見るし、ご立派な政治家までこんなことをやっている。
こんな教育をしたのは誰だろう。
受験戦争が一つの原因でもある。私達の頃もそうだったが、受験指導担当の先生が、「答案用紙は空白にしないでなんか書け、もしかしたら点数になるかも知れない」と、特に選択問題の空欄はあてずっぽに何でも入れるよう強烈に指導された。当時の私はとても違和感があった。解らないものは解らないと答えるのが素直な心である。社会に出た時の出世戦争の中での一端を教育しているつもりもあるのだろうが、こんな考えは社会の出世戦争でも害を及ぼすばかりである。そんな人達があちこちでいろいろな事件を起こしている。
組織の中にこんな人が一人でもいると、いつかは事故が起こる。
解らないものを解らないと報告しないで、解らないままに適当に処置した場合は、その影響はいろいろなところに波及してゆく。受験の場合は受験そのものが終わってしまえばあとは採点した結果しか残らないが、社会における組織的な仕事は永遠に続いてゆくのである。いい加減な仕事はいつまでもいい加減なままで残り、時間がたつにつれ問題は蓄積し、いずれかは発覚してしまう。事前に発覚すればまだいい方で、発覚できないまま、深刻な事故に突入して大事故を生起してしまうこととなる。大事故を起こさないためには、個人個人がいい加減な仕事をしない、もしくはいい加減なことを放置しない心がけが必要であろう。
事故は簡単なことが原因で起こる。
ちょっとしたことでも見過ごせば事故につながる。そのちょっとしたことを最初に発見するのはただの一人の人間である。何も技術も経験も知識もいらない。おかしいと思えばおかしいのである。それをそのまま放置することから事故に向かってまっしぐらに突っ走ることとなる。そして、大事故になる前にもいくつかのおかしな現象が生じている。これさえも見過ごせば取り返しのつかない大事故に遭遇することとなる。おかしいと思ったことは正直におかしいと行動するべきなのである。これができないのは、受験勉強でもしくは入学試験で問題を解くことばかりで、「おかしい」と思うことをやめてしまっているからである。
入学試験で解けない問題に固執していたのでは解答は先に進まない。
試験の中身は8割がたは理解している問題で、2割は解らない問題である。解らない問題に固執していたのでは、8割の問題に手を付けられない。まずは解る問題を片付け、時間があれば解らない問題に挑戦する。言い方を変えれば解らない問題はとりあえず放置するのだ。そして、最後はあてずっぽで解答欄を埋める。こんな修練をいやというほど繰り返している。合格ラインは8割をちょっと超えたくらいである。8割が間違いなく解答できればほぼ合格なのである。どこまで理解しているかを確認する試験なのである。決してすべてが問題解決能力の試験ではない。時間制限内での問題解決には限界がある。どちらかと言うと記憶力主体で、創造性発揮までは至らない。このような入学試験の限界は見極めておく必要がある。あくまで、選抜のための試験であり、万能の能力判定ではないのである。
入学試験の次は就職の面接である。
ここでも入学試験の能力が発揮される。傾向と対策で面接の問答集と回答を事前に用意して模範解答をしようとする。模範解答は造られたもので、決して自分自身のものではない。自分自身の本音や本意をさておいて、決められた通りの対応に終始する。そして、8割の模範解答が得られれば一応合格とする。本当に重要なものは未知の2割に含まれており、この2割をどれほど創造的に挑戦し取り組んでいるかを本人の言葉で確認し評価しなければならない。これをなくして面接試験を通過したのでは、その後の仕事でどんなことをしでかすか判ったものじゃない。こんな人を通す面接官も考え直さなければならない。模範解答ができたら合格なんて、どう考えてもおかしい。面接試験てそんなもんじゃないだろう。まぁ、とりあえずの人材を確保して、あとは社内教育でどうかなると思っているのだろうが、根本のところが抜けている気がする。
就活ルックなるものがある。
みんな同じようなリクルートスーツを着て、同じような行動をしている。みんなと同じでないと落ち着かないようである。みんなと同じ中で上位を目指し就職試験を勝ち取ろうとしている。オンリーワンを目指さないで、みんなと同じ中にいて無難な成果を目指している。反対に言うと、社会がオンリーワンを要求していないのだろう。オンリーワンは異端児として扱われるし、異端児として能力を評価してもらうには多大の労力が必要だし、冒険もしなければならない。オンリーワンが要求にぴったりであればいいが、通常は社会が求める一般的な汎用的な人材の要求には合致しない。だからと言って全てみんなと同じはおかしいだろう。その中で、少しでも自分らしいオンリーワンの要素を持っていなければならないし、そのオンリーワンの部分が自分のセールスポイントでもある。そのセールスポイントさえも「傾向と対策」の中から見つけようとするのは根本から間違っている。それは自分自身で考えなければ意味がない。それこそがオンリーワンなのである。
成人式会場でも同じような雰囲気を感じる。
みんな同じような晴れ着を着て、同じような行動をしている。普段着でも、仕事着でも、自分の好きな服装でもいいではないか。みんなと同じでなければ落ち着けない感覚が私にはおかしく思えてしまう。成人式ではなく、七五三のお祝いのような幼さを感じてしまう。中には反社会的な行動で目立ったことをする若者もいるが、みんなと同じことに反抗して具体的に行動を起こしたことはある意味評価すべきである。みんなと同じ側にいて、みんなと同じようにぬるま湯に浸かっている若者達よりもある意味で立派である。是非、今後は反社会的な方法でなく、立派な社会人としての行動で輝かしい未来を開いてもらいたいものである。このような若者を善導するのも我々年配者の使命であると思う。長い目で見てやってほしいし、貴重な芽をへんてこな偏見で摘み取ってしまわないよう切に望むものであるし、みんなと同じ側にいて慢心している若者達を発奮させるのも必要である。
試験の採点方法を変えたらどうだろう。
自分の解答に責任を持たせるのである。いい加減な解答には減点方式を採用するのである。いい加減で無責任な解答ばかりするとマイナス点になる。試験の最低点は0点でなく、マイナス点となる。そうすれば、いい加減で無責任な解答はできなくなる。実社会では100%正解の解答は少ない。ほとんどが50%以上で採用され、その後の種々の対策で成功に向けて導いてゆくこととなる。問題なのは50%以下、ひどいときは0%の有り得ない解答で対処することである。もっとひどいのは対処することさえしないで放置することである。解らないものは解らないのである。自分なりの対処をするにしても解らないために対処できない場合も、周囲の人達と情報を共有して報告するなり連絡するなり相談するなりして指導を仰がなければならない。周囲の人達もまずは問題を見つけたことを評価して、その問題に組織を挙げて対処すべきである。年配のベテランの人達は、受験戦争の中ではなく、実社会の中でそのことを熟知しているのである。
親として、これも処世術として容認してしまう、もしくはいいこととして積極的に評価する人達がいる。私は間違っていると思う。ただ形としての目的は達成しているが、本来の目的はほとんど達成していない。それよりも、不正な手段でもって形だけの目的を達成したことにして知らんぷりしている態度はどう考えても許されるものではなく、強烈に指導して猛省を促す必要があると思う。この機会を見逃したら、これ以降このような考えが定着し、これが当たり前となり、バレさえしなければ永久にこの処世術を繰り返すこととなる。そのような大人をあちこちで見るし、ご立派な政治家までこんなことをやっている。
こんな教育をしたのは誰だろう。
受験戦争が一つの原因でもある。私達の頃もそうだったが、受験指導担当の先生が、「答案用紙は空白にしないでなんか書け、もしかしたら点数になるかも知れない」と、特に選択問題の空欄はあてずっぽに何でも入れるよう強烈に指導された。当時の私はとても違和感があった。解らないものは解らないと答えるのが素直な心である。社会に出た時の出世戦争の中での一端を教育しているつもりもあるのだろうが、こんな考えは社会の出世戦争でも害を及ぼすばかりである。そんな人達があちこちでいろいろな事件を起こしている。
組織の中にこんな人が一人でもいると、いつかは事故が起こる。
解らないものを解らないと報告しないで、解らないままに適当に処置した場合は、その影響はいろいろなところに波及してゆく。受験の場合は受験そのものが終わってしまえばあとは採点した結果しか残らないが、社会における組織的な仕事は永遠に続いてゆくのである。いい加減な仕事はいつまでもいい加減なままで残り、時間がたつにつれ問題は蓄積し、いずれかは発覚してしまう。事前に発覚すればまだいい方で、発覚できないまま、深刻な事故に突入して大事故を生起してしまうこととなる。大事故を起こさないためには、個人個人がいい加減な仕事をしない、もしくはいい加減なことを放置しない心がけが必要であろう。
事故は簡単なことが原因で起こる。
ちょっとしたことでも見過ごせば事故につながる。そのちょっとしたことを最初に発見するのはただの一人の人間である。何も技術も経験も知識もいらない。おかしいと思えばおかしいのである。それをそのまま放置することから事故に向かってまっしぐらに突っ走ることとなる。そして、大事故になる前にもいくつかのおかしな現象が生じている。これさえも見過ごせば取り返しのつかない大事故に遭遇することとなる。おかしいと思ったことは正直におかしいと行動するべきなのである。これができないのは、受験勉強でもしくは入学試験で問題を解くことばかりで、「おかしい」と思うことをやめてしまっているからである。
入学試験で解けない問題に固執していたのでは解答は先に進まない。
試験の中身は8割がたは理解している問題で、2割は解らない問題である。解らない問題に固執していたのでは、8割の問題に手を付けられない。まずは解る問題を片付け、時間があれば解らない問題に挑戦する。言い方を変えれば解らない問題はとりあえず放置するのだ。そして、最後はあてずっぽで解答欄を埋める。こんな修練をいやというほど繰り返している。合格ラインは8割をちょっと超えたくらいである。8割が間違いなく解答できればほぼ合格なのである。どこまで理解しているかを確認する試験なのである。決してすべてが問題解決能力の試験ではない。時間制限内での問題解決には限界がある。どちらかと言うと記憶力主体で、創造性発揮までは至らない。このような入学試験の限界は見極めておく必要がある。あくまで、選抜のための試験であり、万能の能力判定ではないのである。
入学試験の次は就職の面接である。
ここでも入学試験の能力が発揮される。傾向と対策で面接の問答集と回答を事前に用意して模範解答をしようとする。模範解答は造られたもので、決して自分自身のものではない。自分自身の本音や本意をさておいて、決められた通りの対応に終始する。そして、8割の模範解答が得られれば一応合格とする。本当に重要なものは未知の2割に含まれており、この2割をどれほど創造的に挑戦し取り組んでいるかを本人の言葉で確認し評価しなければならない。これをなくして面接試験を通過したのでは、その後の仕事でどんなことをしでかすか判ったものじゃない。こんな人を通す面接官も考え直さなければならない。模範解答ができたら合格なんて、どう考えてもおかしい。面接試験てそんなもんじゃないだろう。まぁ、とりあえずの人材を確保して、あとは社内教育でどうかなると思っているのだろうが、根本のところが抜けている気がする。
就活ルックなるものがある。
みんな同じようなリクルートスーツを着て、同じような行動をしている。みんなと同じでないと落ち着かないようである。みんなと同じ中で上位を目指し就職試験を勝ち取ろうとしている。オンリーワンを目指さないで、みんなと同じ中にいて無難な成果を目指している。反対に言うと、社会がオンリーワンを要求していないのだろう。オンリーワンは異端児として扱われるし、異端児として能力を評価してもらうには多大の労力が必要だし、冒険もしなければならない。オンリーワンが要求にぴったりであればいいが、通常は社会が求める一般的な汎用的な人材の要求には合致しない。だからと言って全てみんなと同じはおかしいだろう。その中で、少しでも自分らしいオンリーワンの要素を持っていなければならないし、そのオンリーワンの部分が自分のセールスポイントでもある。そのセールスポイントさえも「傾向と対策」の中から見つけようとするのは根本から間違っている。それは自分自身で考えなければ意味がない。それこそがオンリーワンなのである。
成人式会場でも同じような雰囲気を感じる。
みんな同じような晴れ着を着て、同じような行動をしている。普段着でも、仕事着でも、自分の好きな服装でもいいではないか。みんなと同じでなければ落ち着けない感覚が私にはおかしく思えてしまう。成人式ではなく、七五三のお祝いのような幼さを感じてしまう。中には反社会的な行動で目立ったことをする若者もいるが、みんなと同じことに反抗して具体的に行動を起こしたことはある意味評価すべきである。みんなと同じ側にいて、みんなと同じようにぬるま湯に浸かっている若者達よりもある意味で立派である。是非、今後は反社会的な方法でなく、立派な社会人としての行動で輝かしい未来を開いてもらいたいものである。このような若者を善導するのも我々年配者の使命であると思う。長い目で見てやってほしいし、貴重な芽をへんてこな偏見で摘み取ってしまわないよう切に望むものであるし、みんなと同じ側にいて慢心している若者達を発奮させるのも必要である。
試験の採点方法を変えたらどうだろう。
自分の解答に責任を持たせるのである。いい加減な解答には減点方式を採用するのである。いい加減で無責任な解答ばかりするとマイナス点になる。試験の最低点は0点でなく、マイナス点となる。そうすれば、いい加減で無責任な解答はできなくなる。実社会では100%正解の解答は少ない。ほとんどが50%以上で採用され、その後の種々の対策で成功に向けて導いてゆくこととなる。問題なのは50%以下、ひどいときは0%の有り得ない解答で対処することである。もっとひどいのは対処することさえしないで放置することである。解らないものは解らないのである。自分なりの対処をするにしても解らないために対処できない場合も、周囲の人達と情報を共有して報告するなり連絡するなり相談するなりして指導を仰がなければならない。周囲の人達もまずは問題を見つけたことを評価して、その問題に組織を挙げて対処すべきである。年配のベテランの人達は、受験戦争の中ではなく、実社会の中でそのことを熟知しているのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます