オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

嘘をつく

2024年11月22日 | Weblog
どういう時に嘘をつくのだろう。

 自分の考えることと違う状況になった時に辻褄を合わせるために嘘をつくようである。そのような状況に陥った時に嘘をつく衝動に駆られる。この時、嘘をつくかつかないかは個人の裁量にまかされている。通常は嘘をつかないように努力するのだろうし、嘘はつきたくないのが信条だろう。常に嘘をつく人はちょっと人格を疑ってしまう。そして、嘘をつくことはますます自分を貶めることとなる。自分の考えている状況との違いは全く変えることができていないのである。

子供に対して教育する時、

 ああしなさい、こうしなさい、と一方的に強制すことが多い。これをよく考えてみると、言われたほうは言われたことに決して賛同していない。それでもイヤイヤ「はい」と言わされる。これは「嘘」である。その度に嘘をつくことを強制させられているのである。こういう教育が継続的になされると、常に嘘をつくことに躊躇しない鈍感な人格を築き上げていることになる。困ったことではあるが、こんな教育が大手を振ってまかり通っている。このことを反省することもない。

どうすればいいんだろう。

 一方的に強制することが悪いのである。なぜそうしなければならないかをちゃんと納得させる手間を省いているのである。自分が納得できれば被教育者もあえて嘘をつく必要はない。大いに賛同して「はい」と答えられる。賛同できない場合も、とりあえずやってみて結果を判定するつもりであれば「はい」も嘘ではない。なぜ嘘かと言うと、「はい」と言って無視するもしくは別の行動をするからである。面従腹背と言う言葉があるが、これは嘘そのものである。

自分の行なった行為に対して嘘をつく場合は、

 自分の行なった行為の真意を理解していないのである。理解していれば嘘をつく必要はなく、間違いを認めて謝罪すればいいだけである。間違いを認めたくないのかもしれないが、それは事実を歪曲する行為である。間違いは冷静に間違いなのである。嘘で誤魔化せると思うのも事実を見つめていないで、事実から目をそらしているのである。本当に事実を理解していれば次の行動が発動されるし、嘘をつく必要もない。

わが人生の過去を顧みると、

 どれだけ嘘をついてきただろう。周囲の雰囲気に合わせてイヤイヤ従ってきたのも正真正銘の「嘘」である。「嘘」は便利なものであり、世渡りを上手にやる方便でもあるが、本来は敢然として戦うのが本旨なのである。そこの部分をよく承知しておくことが必要であるが、みんなやり過ごしている。そして、皆がやり過ごすと世の中は嘘ばっかりになってしまう。勇気をもって、賛同できない理由はなんだろうと追求することも重要なんだろうと思う。
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