オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「生まれる」という言葉の意味

2007年05月12日 | Weblog

「生まれる」という言葉は面白い。

 「産む」でもなく「産ませる」でもなく「生きる」でもなく「生かす」でもない。「生まれる」なのである。「産む」とか「生きる」と言うと本人が頑張って本人の意思で懸命に努力している姿が見えてくる。「産ませる」とか「生かす」と言うと他人から強制され他人の意志に一方的に従っている姿が見えてくる。「生まれる」とは本人の意思に関わりなく他人に強制されることなく自然に「生まれる」のである。生まれても生まれなくてもいいけれどもとにかく「生まれる」のであり、現在の我々はこうして「生まれた」のであり、そして大自然の中で「生かされている」のである。英語でも「生まれる」は「born」であり能動態でも受動態でもない。

我々はこの「生まれる」という言葉の真意を忘れている。

 ひどい場合は、「産まなければよかった」とか「産んでもらわないほうがよかった」という言葉を吐く人がいる。別にその人を産もうとして産んだわけでもないし、その人が生まれなくても別の人が生まれてもおかしくはなかったのである。しかし、今の「自分」が「生まれた」のである。よって生まれたことに対しては感謝以上(ゼロも含む)の言葉しかないはずである。生まれたことに対して憎んでも恨んでもしょうがない。生まれてしまったものに対してあれこれ文句を言っても始まらない。抹消したければ自ら抹消するしかない。存在そのものは誰の責任でもないし、天に向かって文句を言っても自分に返ってくるだけである。

無から有を生じ自分が生まれた。

 生まれた自分を良くするも悪くするも自分次第である。基本的には自然の成り行きに任せるしかないが、その自然の成り行きの中で「自分」が開花して行く。その開花して行く自分を眺めながら新たな自分を見つけて行く。最初から「自分」があるわけではない。悪いと思えば良くなるように自分で努力するしかない。「自分」でも「自分」がよく解らない。広大な宇宙が自分の中に広がっているのである。それでも試行錯誤の中で「自分」という積み木をひとつひとつ積み上げて行く。どのように積み上げるかは自分次第である。その出来具合に対して忠告くらいはできても最終的には誰にも強制や制限はできない。

外部からの刺激がないと自分を実感することができない。

 刺激に対する反応で自分を実感できる。この繰り返しによってひとつひとつ自分を確かめながら自分を作り上げてゆく。いくら自分の中の広大な宇宙を引っかき回しても自分を見つけることはできないし、作り上げることもできない。自分の外に広がる広大な宇宙と自分の中に広がる広大な宇宙をつなげることによってその境界に位置する自分の形が見えてくる。自分の中に広がる広大な宇宙を無視してもいけないし、自分の外に広がる広大な宇宙を無視してもいけない。それは自分自身を見失うことでもあり、外部との接触を断つことでもある。そのような状態で自分を発見することは未来永劫できない。単に生命活動を維持するだけの存在になってしまう。

自分を実感することができない人が増えている。

 外部との接触を断ち自分の中に広がる広大な宇宙の中でのみ生きている人、若しくは自分自信を見失って自分の外に広がる広大な宇宙に振り回されている人であろうと思う。特に自分を形成しつつある青少年による特異な犯罪が目につく。これは氷山の一角であり、その裾野にはたくさんの「自分を実感することができない人」が増大しつつあるのであろうか。私はこの原因は人と人とのコミュニケーションの欠除だと思う。刺激を受ける機会が少なければ自分を発見する機会も少なくなる。この刺激は最終的には一人対一人の生身の人間同士のコミュニケーションでしか得られないと思う。

マスコミによるコミュニケーションは1対多数である。

 多数の中にあって自分を発見することは難しいし、たとえ発見したとしてそれを確かめる術もない。一方通行なのである。学校教育もこの傾向がある。それでは子供達はどこで一人対一人の生身の人間同士のコミュニケーションを得ることができるのだろう。それはまずは家庭であり、親族であり、隣人であり、友達社会であり、地域のコミュニティーであると思う。一人対一人の生身の人間同士のコミュニケーションは面倒であり、拘わりたくないというのが世の風潮であろう。しかも真剣に対峙しないと効果は薄い。その覚悟を強いられると躊躇してしまう。

結局現代の若者は「一人対一人の生身の人間同士のコミュニケーション」が欠如している。

 よって、自分を実感できなくなっている。ひいては自分を形作ることができなくなっている。それでも彼らなりに懸命に暗中模索し試行錯誤しているのではないか。その一形態として特異な犯罪が表面化しているのではないかと思う。マスの情報は巷に溢れているが、彼ら一人一人に目を向けてくれる情報は皆無である。個々人が何をしようと誰も関心を示してくれない。唯一世間の目を引くのは特異な事件を起こしたときである。その時初めてマスの情報が反応してくれる。そのアクション、リアクションの過程で「自分」を確認しようとしているのではないかと思う。

解決策は何であろう?

 形態的な原因は「核家族化」や「都市化」や「マスメディア」や「マスプロ教育」などであろうが、今更元に戻ることはできない。我々全員が「一人対一人の生身の人間同士のコミュニケーション」の大切さを実感して、自ら勇気を持って実践していかなければならないと思う。「あなたも一億分の1の教育者」という心構えを持つ必要がある。心の問題は効率化・合理化できないし、効率化・合理化してはいけない。効率化・合理化で得られた時間と労力は「心」に向けて活用されなければならない。社会の発展に応じて「心」に費やす時間と労力は指数関数的に増大させなければならないと思う。心の問題は今日やって明日成果が現れるものでもない。毎日の地道な積み重ねである。そしてひとつひとつの積み重ねがないと結局は何も残らない。たとえ無駄に終わっても何もしないよりはましである。少なくともお互いの「経験」が残る。

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