時々考えることがある。
例えば、国会で与野党入り乱れて乱闘騒ぎをやっている時、そこに幼稚園児が出てきて「おじちゃんたち、なにちてるの?」と言われた時どんな反応をするんだろう。どんな弁明をするんだろう。自分のやっている事のさもしさとはしたなさに恥じ入ってしまうのではないだろうか。それとも、「うるさい、関係ない奴はあっち行け」と怒鳴るのであろうか。
よく、庭仕事をしていると隣の子供に声をかけられる。
「おじちゃん、なにちてるの?」である。そう言えば、わが家の娘達からも小さい頃こうやってよく声をかけられたものだ。邪魔になるので、ふすまを閉めてつっかえ棒をしてると、反対側のふすまを開けて「おとうしゃん、なにちてるの?」と顔をのぞかせる。困ったものであったが、今思い出すとなつかしい思い出である。
裸の王様のお伽話があるが、
子供のストレートな疑問の投げかけは、別世界の雰囲気を醸し出す。「何をしてるかと言われても・・・、一体何をしてるんだろう?」と冷静になって考えてしまうし、高級なことをやっているつもりでも「本当に何やってるんだろう」と我に返って、やっていることの無意味さに気づいてしまう。考えようによっては馬鹿馬鹿しくなってくる。
本当に価値があるものであったら子供にも理解できる。
堂々と説明し目の前でその価値を披露できるはずである。子供も細部の専門的な部分は無理かもしれないが、本質的な部分は理解できるはずである。それが説明できないのは何かがおかしいか無意味だと思わなければならない。そんな現象が世の中のあちこちに見られる気がする。是非隣の子供に登場してもらって「おじちゃん、なにちてるの?」とやってもらいたいものである。
街頭で大きな声でわめきながら何かに反対を叫んでいる。
そんな場面に出くわすと、私は「大声でわめいて主張する人の意見は眉唾だ」と心の中につぶやく。心が落ち着いてただの騒音にしか聞こえなくなる。こんな人達に是非「おじちゃん、なにちてるの?」とやって欲しい。どんな反応を示すのか興味津々である。この質問を拒否したり無視するようではますます信憑性に疑いが生じる結果となる。
本当に価値がある主張であったら、
聴衆は足を止めてその主張に聞き入る。何も大声でわめく必要はないし、価値ある主張は冷静な落ち着いた中で行われる。喧伝や扇動は故意の企みを感じさせるし、受け入れられない主張を強引に押し付けようとする魂胆が見え見えである。声を荒げて戦闘的になればなるほど聞かないほうが良いと思わなければならない。もし、これに大いに賛同するという人は、考え方に少々攻撃的な危険性を含んでいると思った方がいい。
「おじちゃん、なにちてるの?」のストレートな疑問は重要である。
物事の本質に迫る疑問でもある。すべての枝葉末節と紆余曲折を取り除いた根幹部分に対する存在そのものに対する初歩的な質問でもある。ややもすると根幹の部分を忘れて形だけ、体裁だけ、見かけだけ、見栄だけのものが意外と多い。そんなの止めてしまえと思うし、止めてしまおうという勇気を与えてくれる。ところで、改めて「おじちゃん、なにちてるの?」、果たして私は何をしようとしてるんだろう?
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