オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「万全を期す」と何もできない難しさ

2009年05月24日 | Weblog

完璧に万全を期すと、何にもできなくなる。

 発生した問題に対処する場合完全な対処要領はない。いくつかの対処要領の中から最もふさわしいものを選択するが、それが最適かどうかはやってみなければわからないし、たとえ最適であっても結果として失敗する可能性はゼロではない。発生した問題に対処する場合必ず危険が伴う。この危険に挑戦する態度がなければ発生した問題に対処することはできない。危険を最小限にする努力はするが危険を全く無くすことはできない。この危険の部分は結果として失敗する可能性を孕んでいるが、この危険が全くなくなるまで待っていたのでは時機を失するし、いつまで経っても具体的な対策ができなくなる。

完璧に万全を期すと、何にもしなくなる。

 自分が完璧に万全を期していると思い込んでいることは、現状には全く問題がないということでもある。問題があっては困るのである。よって問題があっても無視するか、なかったことにする。具体的に小さな事故が発生してももみ消して隠蔽してしまう。当然、この小さな事故を分析して教訓事項を導き出し現状を改善しようなんて思いもしない。問題があっては完璧に万全を期していることにならないのである。改善をしようと何か対策をすることは危険をともなうことでもある。完璧に万全を期すとそんな危険も許されない。よって完璧に万全を期すと、何にもしなくなる。

完璧に万全を期すと、欠陥部分だけを排除する。

 欠陥部分を即座に切り捨てる。完璧に万全を期すことは欠陥は一切受け入れられないのである。人を切り、組織を切り、制度を切り、金を切る。欠陥部分は欠陥になる前は正常だったのであり必要な部分だったはずであるが、それにもかかわらずバッサリと有無も言わさず切り捨てる。理由は欠陥であるからである。切り捨てた部分はいつの間にか再生する。しかし、何も改善していないので時が経つとまた「欠陥」に向かって成長する。そしてまた切り捨てる。この繰り返しである。もしかしたら欠陥部分を切り捨てていると思っている本体の方も「欠陥」に向かって成長しているのではないだろうか。「欠陥」の部分は本体の一部でもあるのである。

マスコミの風潮を見ていると、体制に対して常に完璧を求めている気がする。

 完璧でないと許さない。少しでも不備があると非難轟々である。そしてそれはいつも結果論である。どんなに完璧に万全を期しても事故は起こるのである。起こった事故に対し責任を追及し、責任を負う人を見つけ、徹底して糾弾しても、起こるべくして起こる事故は防ぐことはできない。ましてや責任者を何人排除しても事故は減らない。かえって責任を負う人は萎縮し尻込みし消極的な安全策に走ることになる。「完璧に万全を期せ」と言われると、何もできなくなり、何もしなくなり、欠陥部分を排除し隠蔽することに一生懸命になる。

あるべき姿は、完璧に万全を期すことを捨てることである。

 一旦起こった問題に対しては「完璧に万全」でなくても迅速に対応できる即断即決の実行力が必要である。そのためには実行する人に責任を全面的に委任しなければならない。委任したからには結果にはみんなで責任を取らなければならない。うまくいかなかったからと言って文句を言うことはできないし、文句を言うのであれば自分でやったらいい。少なくともその道の専門家以上の結果を得ることはできないであろう。そのために日頃から「実行する人」を厳選し、組織を作り、指揮権を与え、施設や機材を整備し、充分に準備させておく必要があると思う。

事故の起こる確率を減らすためには、

 小さな事故はある程度容認しなければならないし、この小さな事故から得られる教訓から現状の問題点を改善することを推奨しなければならない。小さな事故も許さないし、小さな事故くらいでいちいち現状を改善するのは無駄だと言われたら、「実行する人」は大きな事故が発生するまでは何もできないことになる。大きな事故がなければ待機のままで何もしない状態になる。大きな事故の起こる可能性を最小限に抑えることが重要であり、そのためには小さな事故からできるだけ多くの教訓を学びこれを現状の改善につなげて行くのが重要である。

マスコミがやることは、

 大きな事故が起こったときに責任を追及するだけではいけない。小さな事故のときに教訓を見出し警告する事も重要である。当然現状に内在する不安全事項や不備事項を指摘し改善を促して行くのも重要である。どちらかと言うとこっちの方が重要であり結果論で責任追及するばかりでは「実行する人」はいつまで経っても報われない。また事故が起こったときも最終責任者ばかりを責めるのでなく、何が問題で何を改善しなければならないのかを明らかにすべきである。「人」だけに帰結するわけではない。当然「実行する人」も大きな事故の起こる可能性を最小限に抑え、小さな事故の教訓を生かして現状を改善する努力を常に怠らないようにしなければならない。マスコミも実行する人もそして国民も協力して大きな事故の起こる可能性を最小限にする地道な努力を普段から継続的にするのである。

事故の原因は大きくわけて①情報収集②情報処理③実行の3段階に区分できる。

 情報収集の段階で間違えば、あとの処置はすべて間違えることになる。そのためには、収集した情報の再確認をすることが重要である。②③の処置の段階でも情報収集を継続し必要に応じフィードバックし修正をしなければならない。これを集団の組織で実行すると一旦動き始めるとなかなか修正が困難になる。事故の対策にはトップダウンの指揮が必要な所以である。寄り合い所帯ではフィードバック修正もままならない。世の中を見ていると一部の情報に踊らされ一旦組織が動き出すとコントロールできなくなる事例がいかに多いことか。リーダー不在の象徴ではないかと思う。

情報処理の段階での間違いは個人に帰結する。

 いろんな意見はあるが最終的に判断し結論を出すのは最終責任者すなわち組織のリーダーである。その結果の責任は最終責任者すなわち組織のリーダーにある。このリーダーは「飾り」であってはならない。真の知識と経験と能力と実行力を持った者でなければならない。日本の場合はこの部分が頼りない気がする。率先して組織をぐいぐい引っ張って行くリーダーを目にすることはあまりない。「組織で検討して最善の方策を実施する」リーダーばかりである。リーダー自身の意志を表明することは少ない。反対にたとえリーダーの意思を表明してもお粗末すぎて話にならず誰もついてこない結果となるようだ。昔のバカ殿様の「よきにはからえ」の世界を彷彿させる。これはリーダー失格を意味している。

実行の段階の間違いは組織に帰結する。

 具体的に実行するのは組織である。リーダーの下に組織が有効に機能するように整備しておく必要がある。そして実行の状況は逐一報告され、リーダーが掌握する必要がある。組織には報告義務があるのである。組織の暴走は許されない。日本の場合この組織にも問題がありそうだ。サブリーダーやスタッフがリーダーもどきの権限を行使して勝手に行動することが許されている。リーダーは祭り上げられているだけの様相を呈する。権限はあっても具体的に行使できないことになる。「遺憾の意」や「不快の念」や「叱咤激励」するだけのリーダーに成り下がっている。これも変えていかなければならないと私は思う。

事故が起こった場合、どのレベルで責任を取らせるかは明確にすべきである。

 どんな事故でもその責任をたどって行けば最終責任者にたどり着き、最後は政治が悪い総理大臣が悪いことになるが果たしてそうであろうか。一番責任を負うべきは事故を起こした張本人であり、次にはその直接の責任者であり、次にはその上の責任者である。責任者は上に行けば行くほどその責任は包括的で軽くなるのが普通だと思う。責任を取るとは、現に発生した事故についての本人の負うている責任を問う行為であり、将来の対策をどうするかは別の話である。責任者を処分しただけでは具体的な対策とはならない。将来的にどのような対策をするかを考えることこそが上層部の責任者のやることである。よって上層部の責任者をいくら切り捨てても事態は改善しない。

事故の教訓は、①情報収集②情報処理③実行、に区分して考えたらどうだろう。

 少なくともこれまでよりは具体的な教訓が得られるのではないか。この人が悪い、あの人が悪い、ここが悪い、あそこが悪い、となすり合いをしていても進展しないと思う。情報収集の段階であれば、間違った情報を与えた人が一義的には悪いのであり、情報処理の段階では間違った判断を下した人が一義的には悪いのであり、実行の段階では最終的に実行した人が一義的には悪いのである。そして二義的に①②③に携わった人の責任になる。フィードバックはあるもののプロセスとしては常に①→②→③の繰り返しである。このプロセスに従って分析すれば原因を究明できるのではないか。

どうしても卵が先かニワトリが先かのような、

 堂々巡りの議論の中で最終責任者への責任追及ばかりがなされる。確かに最終責任者に責任があるのは免れないが、事故の原因とその直接責任という観点からは最終責任者の責任だけで終わらせては改善につながる教訓を得ることはできないと思う。日本の場合は組織全体で責任を分かち合う場面を多く見るが、もっと個人を前面に出してもいいと思う。いや出すべきである。個人だけの直接責任にしては可哀想だという感傷に誘われるかも知れないが、それでは問題点に対し目をつぶっているだけである。個人の直接責任を追及すればこれに対する反論も議論もあり、この反論、議論の中で事実が明らかになっていくのである。最終責任者を更迭しさえすればこれで良しとする風潮ではいつまで経っても問題点が明らかにならないし、対策もままならない。

責任とは任を責めることである。

 自分に任せられた職権に対し責めを負うことであり、責めに対して明確な説明ができることである。これができる人が「責任者」であり、これができない人は「責任者」ではない。ただちに職権を放棄して自分が無能である事を宣言してその職を辞退し適任者と交代しなければならない。英語でも「責任」は「Responsibility」であり、レスポンスできる人、ちゃんと説明できる人である。あちこちマスコミに祭り上げられている「責任者」がただの名前だけで本当の「責任者」でないのは残念な事だ。責任者不在ばかりでは税金泥棒と言われても仕方ない。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「禁止」と「許可」 | トップ | インターネットの匿名性について »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事