オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

世代による教育の違い

2019年03月03日 | Weblog
今朝は雨模様で、妻が外出するとのことで車で駅まで送っていった。

 途中女子学生が電車に間に合わないと思ったのか傘もささずに小雨の中を走っていた。かわいそうに思って後部ドアを開けて「私達も駅に行くので駅まで乗っていきませんか?」と妻が尋ねた。その女子学生は「ありがとうございます。でもいいです。」と丁寧に断った。そしてまた走り始めた。「乗っていけばいいのに」と内心思ったが無理強いするわけにもいかないのでそのまま通り過ぎた。何となく可哀そうで申し訳ない気持ちになった。

たぶん、子供の頃から「知らない人の車に乗ってはいけません」と教えられているのだろう。

 家庭でも学校でも警察でも自治体でも、テレビやラジオや新聞でさえこんな防犯教育を受けて育ってきたのだろう。身についてしまっている気がする。私達が子供の頃は知らない人であっても喜んで乗せてもらってた。「知らない人の車には乗っていけません」なんて言われなかった。「悪いことをすると人攫いに連れていかれるぞ」という脅し文句はあったが、周りで人攫いに連れていかれた人は皆無であった。日常的にはそんな危険もないし、ましてや車に乗せてもらうことは悪いことでもなんでもない。

まぁ、我々は大人になってしまったから自分で考えて行動するのだろう。

 とも思うが、当該女子学生はどう見ても高校生である。幼児でも小中学生でもない。もう自分の判断で行動できる年齢であろう。別に女子学生を責めているわけではない。丁寧に断ってお礼まで述べている。立派な態度である。我々が子供の頃ホイホイと喜んで車に乗っていたことこそが幼稚で無防備なんだろう。でもその頃はそんなことくらい許されて問題ない世の中であったことは間違いない。

この頃は、もし車に他人を乗せて事故を起こしたらどうするんだという人もいる。

 確かにその通りだが、他人に何かの作用をするときは、その作用については自分の責任を持つのは当たり前である。このことを最初からしなかったら未来永劫他人に作用を及ぼすことはできない。その責任が嫌というなら人間社会は成り立たない。自分だけで行動し他人に無関心で作用することさへ放棄してしまう。他人から作用を受けた時は拒絶して、逃げ出してしまう。それが本当のあるべき姿なのだろうか?

駅に妻を送って帰りがけ、

 その女学生は引き続き小雨の中を走っていた。電車に間に合ってくれればと祈るばかりであった。世の中はみんなが悪い人ではない。ほとんどの人は善人ばかりである。一部の悪い人が凶悪で最低の事件を起こして世の中を騒がせ恐怖に陥らせている。メディアが騒ぎ過ぎなのではないかとも思う。あまりにも一部の人の凶悪犯罪を強烈に報道するので、自分の周りはみんなそんな人達だと勘違いしてしまう。もっとおおらかにできないものだろうか。

我々老輩は、基本的に性善説で生活している。

 老人に係わる詐欺とか強盗とか、殺人事件を見ていると、あまりに無防備であり、その 無防備さと善人の隙をついて悪さをする輩がいる。本来はそういう不届き者をバッサリと成敗しなければならないのだろうが、この不届き者は後を絶たない。これもまた教育が悪いのだろう。自分さえよければ他人を蹴落とすことに何の躊躇もない人達を合理主義のもとで育てているのだろう。市民の善意はこの人達に打ち出の小槌か玉手箱みたいに狙われている。


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