以前この表題で記事を書いた。
相変わらず風評被害の嵐が治まらない。どちらかというと、どこを向いても風評被害である。よく考えると、「風評被害」という言葉が悪いのではないかという気がしてきた。「風評被害」という言葉で何もかも済ましてしまっているのである。自然発生的な仕方のないこととして自然災害と同じような扱い方で片付けられてしまっている。そのことそのものが問題ではないだろうかと思っている。
「風評被害」という言葉を英語に翻訳してみると、
「harmful rumors」 とある。日本語に訳すと、「有害な噂」である。実に的確である。風評被害とは有害な噂なのである。そうであれば、有害な噂を流した張本人が存在するはずである。「風評被害」という言葉からは被害を発生させた張本人が見えてこない。風評とは「世間であれこれ取りざたすること。また、その内容。うわさ。」とある。世間で取りざたされている噂のことである。噂はいろんな多種多様な内容であるはずである。その内容の一部を悪用したり誤用するために被害が生じる。
「風評被害」が世間に蔓延するのは、
有害な噂を大々的に吹聴する張本人が存在するからである。昔であれば口コミによる自然発生的な噂であって、噂そのものは正しいものも間違ったものもあっただろうが、ただ、大衆の話題に上がるような興味ある事柄について取りざたされただけで、真偽そのものは受け取った個人が判断すべきものである。風評は単なるきっかけに過ぎない。また、風評の真偽は個人が見定めなければならない。風評はそんなもので、毒にも薬にもなるようなものである。
ところが現代は、
マスコミュニケーションと称して大量の情報が大々的に発出される。この中に有害な噂が入っているのである。この有害な噂を流しているのはメディアである。もっと言うと、風評被害を作り出しているのはマスコミュニケーションというメディアである。そこの部分をどうにかしないと風評被害地獄から抜け出すことはできない。もう一つは、我々一般大衆である。我々がマスコミュニケーションを鵜呑みにしないで冷静に判断し、取捨選択できれば風評被害は起こらないのである。
メディアは事件を誇張し脚色して一般大衆に迎合し扇動することを止めて、
我々一般大衆はメディアの報道を冷静に受け止めて、主体的に判断することに努めれば、風評被害は起こらない。少なくとも正しい風評が取りざたされ、本当に必要な問題点が浮き彫りにされていくと思う。雑音にフィルターをかければその中の本当の情報が抽出されるのである。まずは雑音を出さない努力、そして、その雑音をフィルターをかけて取り除く努力、その両方が相まって風評被害はなくなるのであろう。いつまでたっても収まらない風評被害は、あまりにも強烈な雑音により、その雑音を取り除く努力を怠っているからだろう。
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