証拠とは「事実・真実を証明するよりどころ。あかし。」とある。
果たして、事実・真実を完全に証明することはできるのだろうか?まずは、この出発点から考えて怪しいし、心もとない。事実・真実と思い込んでいるだけなのかもしれないし、時が経てば、事実・真実と思っていたものが間違いだったということもある。しかも、時が経てば当時の事実・真実を証明しなおすことは不可能に近い。その時の状況に戻すことはできないし、新たな証拠が現れない限り過去に立証された「証拠」は真実とは言わないが厳然たる事実として残されている。
犯罪を証明する時、
犯した犯罪の証拠を集めて、これを事実・真実として証明する。しかしながら、個々の証拠は完全なる事実・真実ではない。それでは「証拠」とは何なんだろう。それは、犯罪を犯した本人やその周囲の人達を証明し説得するためのものである。一番に認めさせなければならないのは、犯罪を犯した本人である。確固たる直接の証拠を突き付けて言い逃れができない状態にして本人に罪を認めさせるのである。自白ではない。これを強要すれば自白強要罪になる。自白の強要は憲法で禁止されており、違法な自白は証拠としては扱われない。
警察や検察が全ての証拠を明らかにしないのが悪いという論調がある。
何度も言うが、証拠と言ってもピンからキリまである。重要な証拠もあり、ただの参考資料もあり、直接関係ない資料もある。そして、証拠は事実・真実を完全に証明することはできない。個々の証拠の不備を指摘して証拠つぶしをすれば、すべての証拠は消滅してしまうし、犯罪を立証することもできなくなるし、過去の証拠を覆せば、すべての犯罪は冤罪になってしまう。そうならないためには、どうしなければならないか?証拠によって犯罪を立証し、最終的には犯罪を起こした本人や周囲の人達がこれに納得し、認めることである。
そうであれば、証拠は決定的な証拠でなければならない。
そんな証拠は限られている。全ての証拠を白日の下に晒しても決定的な証拠にはならない。決定的な証拠に至った種々雑多な証拠は参考資料にしかならないと思う。全てが証拠だと言われたら、管理もできないし、一つ一つを証明することも不可能である。問題は、決定的な証拠がないにもかかわらず、自白を促し、本人に犯罪を認めさせることである。本人が自白すれば問題ない訳ではないし、自白至上主義は大いに問題がある。自白があっても、犯罪を犯した決定的な証拠がなければ当然ながら犯罪は立証できない。
決定的な証拠がなくても犯罪を証明させるのは間違っている。
例えば、交通取り締まりのスピード違反である。取り締まり機を使って、速度データを提示して、これで違反者が納得して従えば問題ないが、納得がいかない場合は裁判に持ち込むことはできる。この場合、速度取り締まり機の測定データが信用できるかを立証しなければならない。機材が正常か、測り方は正しかったか、メータの較正は正しいのか、測定誤差はどれほどか、測定対象を間違っていなかったかなどなどいろいろなことを立証しなければならないんだろう。一つ一つやるのも大変だし、すべてを立証することもできない。裁判で負ける確率は高い、
しかしながら、この場合の決定的証拠は、
速度取り締まり機の測定データであり、測定していた警察官の証言である。そして、本人がその事実を認めれば現行犯である。自動取り締まり機が有効に働かないのは、こんな事情もあるのだろう。現場の警察官の証言は立派な証拠になる。また本人も言い逃れができないであろう。それにプラスして速度取り締まり機の測定データがあれば、客観的かつ機械的な判断も付け加えられる。測定データだけでは不十分であり、いかようにも言い逃れができるし、その場を切り抜けられれば後から違反を立証することは不可能である。
反対に無実を証明することも難しい。
無実とは何もないことである。疑われている犯罪事実が存在しないという潔白のことである。何もないことを証明するには、まずは犯罪現場に本人がいなかったことを証明しなければならない。その時間その場所に存在しなかったことを証明しなければならない。そして、犯罪に関する事実の証拠の一つ一つを本人と関係ないことを証明しなければならない。これもまた難しいことである。理論的には何もないことを証明するためにはすべての存在を否定できなければならない。無実を証明しろと言うのが無理なのである。
冤罪事件があって、結果として無罪になった場合、
私は別の見方をする。無罪ではなく有罪が証明できなかったと考える。見方はいろいろあるのだろうが、前述した通り無実を証明するのは難しいのである。犯罪を犯した事実があれば、その事実に基づいて様々な事実が事象として発生するのであろうし、その派生した事実をたどっていけば決定的な証拠にたどり着くであろう。しかし何もないことを証明しろと言うこと自体が矛盾しており現実的でなく無理なのである。そして、反省すべきは有罪として証明できる決定的な事実が見つけられなかったにもかかわらず有罪とした側であり、不十分な証拠で固めた裁判結果でもある。
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