平成の後半、それまで熱心に祭祀に取り組まれていた皇后美智子さまは御高齢による体力の衰えと頸椎症候群の悪化を理由に祭祀を”お慎み”されることが多くなっていました。そのため多くの国民には、「お慎み」とは本来出席すべき祭祀を欠席すること、という理解がインプットされてしまいました。
しかし、宮中祭祀には、元々皇后はじめ女性皇族の出席を要していないものがあり、そのような祭祀に出席しない場合も「お慎み」という言葉が使われていたようです。
女性皇族が出席すべき祭祀を欠席する場合も「お慎み」
女性皇族の出席を要しない祭祀に出席しないことも「お慎み」
混乱を招いた元は出席すべき祭祀を欠席する際に「お慎み」という言葉を使った美智子さまでしょうか。
宮内庁はHPで、国民に皇后の出席を要する祭祀と皇后の出席を要しない祭祀を明らかにすべきでしょうね。
もしや、宮内庁が明らかにしないのは、本来出席すべき祭祀の御欠席を「皇后は出る必要がないからお慎みされた。」と国民に誤解させる意図でもあるのでしょうかしら。😁
*お慎みを考える資料
その1(コメント欄、一つ葉田子さんご紹介による)
皇后さまと子どもたち 宮内庁侍従職監修 毎日新聞社(平成20年)
「新嘗祭の折などには、祭祀が深夜に及び、皇后様は御装束をお召しになり古式ゆかしいお姿のまま、
御拝を終えられた陛下と共にお祭り終了までお慎みの時を過ごされます。
このような祭祀の夜は『およふかし』と御所で呼ばれておりましたが、
宮様方も一定のご年令に達されてからは、それぞれにこのお時間を
最後まで静かにお過ごしになるようになりました。
終了のお知らせが参りますと、お二階の両陛下のお部屋までいらっしゃった宮様方の、
『お滞りなく…』『おやすみなさい』とおっしゃるお声が次々と響き、
祭祀の終わった安堵を感じるものでございました。
😐 後に美智子さまは、高齢と頸椎症候群の悪化を理由に、「お慎み」の古代装束を止めてしまわれました。これも国民の「お慎み」理解の混乱を招いた原因でしょう。
資料
その2
「皇室祭祀と建国の心」
鎌田純一(元宮内庁掌典)
鎌田純一(元宮内庁掌典)
😐 興味深い記事。平成7年の皇室には昭和の威風が残存していたことが解る。三笠宮大殿下、寛仁親王殿下、高松宮妃殿下、大御所方がお元気だったからだろうか。
日本会議のかたですから、語り口が神がかっているがエピソードは興味深い。
文中、陛下、天皇は現在の上皇、皇太子は現在の今上。先帝は昭和天皇。
陛下は毎年、新嘗祭の御習礼(ごしゅらい)(※お稽古のこと)を必ず二、三度なされますが、大嘗祭のときには御習礼を六度もなさいました。陛下は御習礼といえども、少しも揺るがせにされない。一度は完成前の大嘗宮の中で御習礼あそばされましたが、そのときは、昭和天皇のご学友で、侍従もされた永積元掌典長を側におかれて「先帝と少しでも違っているところがあったら言うように」と仰せられて御習礼に臨まれました。
それくらい陛下のお祭りに臨まれるご態度は厳粛なものなんですね。これが歴代天皇のご精神でいらっしゃる。国民全体が緩んだ中でも、陛下は決してお祭りを揺るがせにされることはないということを私はよくよく拝見させて頂きました。
😅 国民全体の緩みもさらに進んだのでしょうが、今上も緩々で…。新嘗祭よりサッカーの結果が気になるご様子。
また例えば伊勢神宮の神嘗祭のときなど、全皇族方お慎みです。先帝もそうでしたが、陛下もご公務だからといってその日に皇族が外出されることは許されません。その戒めは厳重です。
😐 重要な祭りは出席する必要がなくても「お慎み」が要求されていたようです。
― 皇后陛下もお見送りされるわけですね。私たちが全然知らないところでのお祭りの営みですね。鎌田 それは、私たちも考えなければいけないことですが、今は宮中祭祀を陛下の私的行事ということにしてしまっていますから、取材は一切させません。またいいかげんなことを書かれても困りますから。ただ、そのときどきの法令がどうであろうと、幕府の時代であろうと何であろうと陛下ご自身は天照大御神の御神勅以来のお祭りをきちんとあそばしていらっしゃるということです。そのことは先帝が今の陛下に、今の陛下が皇太子殿下にと如く、代々受け継がれて来たご伝統です。
😐 ――「天皇の私的行事だから」「いい加減なことを書かれても困る」から祭祀の営みについて取材させないし、語らない。
鎌田氏はそう言っているが、現在の宮内庁もそのスタンスでしょう。
いい加減なことを書かせないためにも、宮内庁は祭祀について国民に正しい知識を与えるべきだと思うが…。
宮中三殿の中で行われている秘儀を明らかにする必要はないが、「皇后の見送り」「皇族の参加を必要とする祭祀」「皇族が参加する必要が無い祭祀」「お慎み」についてくらいはHPで解説しても良いのではないでしょうか。
御祭服(束帯、袍)御祭服(ごさいふく)は、宮中祭祀の神事の中で、最も清浄にして神聖な御服であり、練らない白生絹で製作されたもので、大嘗祭の「悠紀主基(ゆきすき)両殿親祭」、年中恒例の神事では新嘗祭の時にだけ召される。冠は幘製の御幘の冠(おさくのかんむり)で、これらは天皇が未成年の場合には一切召すことができない。
平成の天皇 大嘗祭
令和の天皇 大嘗祭
帛御服(束帯、縫腋袍)
帛御服(はくのごふく)は、前者に次ぐ祭儀服で、純白無文、冠は立纓(冠の纓が前方に立っているもの)である。ただし、未成年時はこれらを召さず「空頂黒幘」を召す。即位の礼の一部と、大嘗祭の渡御のときにしか召されず、通常は用いられることはない。
😅 今上かと思ったら、1990年平成2年、大嘗祭の現上皇でした。
写真を取り違えたようです。どうみても今上ですよね。恥。
天皇の祭儀服を丁寧に解説しているサイトは多いのですが、皇后の祭儀服についての解説は殆ど見あたらないのです。
皇后の帛御服。
どのサイトも日本服飾史の解説とほぼ同じです。
御儀服皇后、皇族は唐衣、表着とも二陪織、色は白、赤、青色が最も重く、打衣にも菱紋ひしもんなどの文が用いられる。この形式の御装束は即位礼当日紫宸殿の儀、即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁しんえつの儀にも御召しになる。
皇后の御服にはその他帛御服はくのごふくがあり、これは大礼の時、即位礼当日賢所大前の儀及び大嘗祭だいじょうさいに用いられる。また、御五つ衣、御小袿、御長袴がある。これは最も多く用いられるもので、大礼の時、宮中三殿に期日奉告の儀、即位礼後一日賢所御神楽の儀、京都より還幸後に於ける賢所神楽の儀及び皇霊殿神殿に新謁の儀を始め、年中恒例の大祭、小祭を通じて用いられる。
皇室祭祀令には「お慎み」についての記載はなく、勿論「お慎み」には何を召されるのか書いてありません。
美智子さまがお慎みの折に召されていた白装束は、もしかしら、祭祀に熱心だった美智子さまが独自に進んで召されていたのではないか、と、取りあえずの結論としておきます。
そのあたりのところ、詳しく御存知のかたのご教示を待ちたいと思います。
補足:
😃 早速、コメント欄でシロガネさんのブログ『シロガネの草子』にお慎みに関する記事があると教えていただき、大変勉強になりました。
新嘗祭のお慎みの際に皇后が召すのは白い「袿」と「長袴」のようです。お付きの女官さんが来ているのは、写真から察するに大正4年に定められた「女官袿袴礼服」というもののようですが、こちらも白です。
私のバイブル、『祭祀令』を見てみましょう。
大祭式に於ける服装規定の部分、
皇后 皇太子妃は五衣、小袿、長袴。
女官は袿袴
大正4年制定「女官袿袴礼服」
公家女房五衣小袿(平安時代)
公家の女房の正装は唐衣、裳をつけることであるが、この正装にかえ高貴の方々では単、五つ衣の上に小袿を重ねられることがあった。
近世の小袿は袿と同形で、表地と裏地のおめりの間に中陪という別裂をつけた三重の仕立のものをいうが、平安末期では必ずしもこのことばかりでなく、やはり身丈が多少短いものと思われる。これは女子の准正装といえる。
ブログ『シロガネの草子』に添えられていた写真では新嘗祭のお慎み近世の皇后がたた美智子さまが召された袿は三重仕立てです。女官の方々が着ている白い袿もこの写真の「女官袿袴礼服」より簡素です。
祭儀に参列はしないが、参列に準ずる装束を着て”お慎み”の時を過ごす。ということなのでしょうね。
美智子さまは平成の後半、装束の負担が大きいということで、祭祀を欠席されることが多くなりました。おそらくそのころから、お慎みでも装束は召されなくなっているはずです。
同じく雅子さまも祭祀を欠席し始めたその理由は「装束の負担が大きい」でした。当然お慎みも装束は召されていないのではないでしょうか。
貴重な写真を拝見し、自分でも調べて腑に落ちました。
ご教示ありがとうございます。