う~に~を亡くしたときの気持ちと、まいすのそれとは少し違っている。
う~に~が旅立つ時、私は仕事もしないで生活のすべてをう~に~のために捧げていて、
そうやって看取った最期だったから、自分なりに納得はできたし、責任を全うできて
ほっとした面もあった。
その後に襲ってきた激しい喪失感は、ある程度は予想していたし(実際は想像以上だったけど)
仕事を辞めた時点で、それは覚悟していた。
う~に~のために使っていた時間や自分の関心を、どう使っていいかわからなくなり、
何も手につかない日々を何日も過ごしてしまった。
まいすのときは、きっとそうはならないだろうと思った。
既に仕事に就いていたから、家にいない時間は気が紛れるだろうし、
まいすはう~に~のように人間にべったりではなく、ひとりで過ごす時間が多いから、
「不在」の寂しさや喪失感は、う~に~ほど大きくないのではないかと思っていたのだ。
まいすが旅立った後、たしかにう~に~のときよりは、普通に生活することができた。
それはやはり、毎日仕事に行っていることが大きかった。
だけど「まいす不在」の穴は、私が思っていたよりずっとずっと大きかった。
毎日散歩に行かなくても、どこかで勝手に寝ていて姿が見えなくても、
まいすの存在感は途轍もなく大きかったのだ。
私にとってまいすは、欠くことのできない心の拠りどころとなっていた。
もうすぐ5ヶ月経つけれど、今も毎日「まいすに会いたい、会いたい」と思う。
「早く帰っておいで」と口をついて出る。
う~に~が帰って来ると思ったことがないのだが、何故かまいすにはそう言ってしまう。
まいすにはちゃんとお別れができていないから、心のどこかで、
やっぱり受け入れられていないのだろう。
そして何故死んでしまったのかもわからないし、あそこまでみんなで頑張っていながら、
結局は死なせてしまったことを思うと悔しくてたまらない。
この悔しい気持ち、う~に~のときにはなかった。
私は無宗教なので、こんなとき縋るべき神様や仏様がいるわけでもないのだが、
しいて挙げれば最近の私は「ミスチル教」とでも言うべきか。
Mr.Childrenは、う~に~が生まれる前、「CROSSROAD」の頃から好きだった。
でもそれはCDを2~3枚持っていて、BGM的に聴くという程度のファン。
う~に~がいた頃は、じっくり音楽を聴いたり、ライブに行ったりする時間は皆無だったから。
う~に~が亡くなった時、「しるし」や「HANABI」や「花の匂い」の歌詞を読み、
何度も聴いては泣き、それでずいぶん心が癒やされた。
まいすが旅立った後、私は突然熱心なミスチルファンになった。
昨年末からの私は、毎日Mr.Childrenを聴き、その詞に心を揺さぶられ、曲に癒やされ、
演奏に元気をもらっている。
どうしてこうなったのか、理由は自分でもわからない。
何故か急に、私の心にMr.Childrenの音楽が侵入してきたのだ。
私はたぶん、まいすの仕業ではないかと思っている(笑)。
だってバドミントンのラケットカバーに、ひそかに足型つけて、死んだ後に発見させたまいすですよ。
私の心を操るくらい朝飯前でしょう。
きっと私の気が紛れるように、慰められるように、まいすが考えてくれたんです!
・・・と考えるあたりがちょっと宗教っぽいか(笑)。
というわけで、毎日ミスチル聴いています。
最近のお気に入りは
どんな不幸からも喜びを拾い上げ 笑って暮らす才能を誰もが持ってる
(CENTER OF UNIVERSE words by KAZUTOSHI SAKURAI)
というフレーズ。
元気づけられるなあ。
残りの連休も、ビール飲みながらミスチルのライブDVD観て、笑って過ごそっ。
2006年4月、箱根に行ったう~にゃんとまいすだよ~。