TV『鹿男あをによし』に登場するのは“平城京”。
我が家の近くにあるのは“藤原京”。
都が平城京に移るまでの16年間、大和三山に囲まれた“ココ”が日本の首都だったのだ。
先日のブログに載せた池の鴨の写真を撮り、大極殿の中にある鴨公(かもきみ)神社にお参りし、 木立の中から外に出てきたら、大極殿の前にはカメラマン。
もしかしたら・・・私はかなり彼の仕事の邪魔をしていたのかも?
藤原の都は、碁盤目のように整然と道路を通した人工の町だった。大小の道路によって区画した街区は、南北の単位を「条」と呼び、東西を「坊」と呼んだ。貴族や役人、庶民達が住む京域は、奈良盆地を走る幹線道路によって区切られた東2.1km、南北3.2kmの大きさで、宮はその中央やや北寄りの約1km四方を占めていた。
京は、大路によって南北12条、東西は朱雀大路を中心に左右両京はそれぞれ4坊に区画された。なお、これまで考えていた京の範囲の外側で、藤原宮時代の道路跡がいくつか発見され、京域はもっと大きかったとする「大藤原京説」が登場してきている。
西暦710年3月以降、廃都になった藤原京は建物を解体し、柱・瓦・礎石など再利用できる物資は、すべて平城京へ運ばれたのだという。
せっかく建設した都を、何故僅か16年で引っ越すことになったのやろうか ?
我が家の近くにあるのは“藤原京”。
都が平城京に移るまでの16年間、大和三山に囲まれた“ココ”が日本の首都だったのだ。
先日のブログに載せた池の鴨の写真を撮り、大極殿の中にある鴨公(かもきみ)神社にお参りし、 木立の中から外に出てきたら、大極殿の前にはカメラマン。
もしかしたら・・・私はかなり彼の仕事の邪魔をしていたのかも?
藤原の都は、碁盤目のように整然と道路を通した人工の町だった。大小の道路によって区画した街区は、南北の単位を「条」と呼び、東西を「坊」と呼んだ。貴族や役人、庶民達が住む京域は、奈良盆地を走る幹線道路によって区切られた東2.1km、南北3.2kmの大きさで、宮はその中央やや北寄りの約1km四方を占めていた。
京は、大路によって南北12条、東西は朱雀大路を中心に左右両京はそれぞれ4坊に区画された。なお、これまで考えていた京の範囲の外側で、藤原宮時代の道路跡がいくつか発見され、京域はもっと大きかったとする「大藤原京説」が登場してきている。
西暦710年3月以降、廃都になった藤原京は建物を解体し、柱・瓦・礎石など再利用できる物資は、すべて平城京へ運ばれたのだという。
せっかく建設した都を、何故僅か16年で引っ越すことになったのやろうか ?
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