鹿児島へ行ったとき,照国神社の大鳥居の近くで“桜島爆発記念碑”を見かけた。
“桜島爆発記念碑”・・・特に“爆発”という名前に・・・
私はその直前に城山に上って噴煙を上げる桜島を眺めたばかり。
自然の驚異というか,桁外れのエネルギーを感じたというか・・・
鹿児島市内の道路脇には,火山灰を集める表示と袋に入った火山灰があった。
自動車のガラスやボデイは火山灰で灰色に汚れ・・・
後日,鹿児島港で桜島を眺めていたら,突然「ドン!」という鈍い音。
もしかしたら・・・今のは噴火の音???
桜島の山頂をよく見たら,黒い噴煙が上ってきた。
思わず感動して声を出してしまった。
タクシーに乗って桜島の噴火を見た話をしたけど,運転手はいつものことと相手にもしてくれへんかった・・・
@櫻島爆發記念碑
1914年(大正3年)1月12日の鹿児島県桜島の噴火災害の後に建てられた石碑(災害記念碑)であり、複数存在するが、中でも1924年(大正13年)1月に当時の鹿児島県鹿児島郡東桜島村大字湯之(現:鹿児島県鹿児島市東桜島町)に建立された碑を指すことが多い。
石碑の現在の所在地は、鹿児島県鹿児島市東桜島町にある鹿児島市立東桜島小学校の敷地内となっている。
その碑文の内容は、
大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ
火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ八ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷
者ヲ出セリ其爆發数日前ヨリ地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯
湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數
回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽
シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ信頼セシ知識階
級ノ人却テ災禍ニ罹り村長一行ハ難ヲ避クル地ナク各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中
山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論
ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ
何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス
大正十三年一月 東櫻島村
碑文は、当時の東桜島村長・川上福次郎が、桜島の異変から、鹿児島測候所(現:鹿児島地方気象台)に数回問い合わせたが、回答は「櫻島ニハ噴火ナシ」であった。村長はこの回答を信じ、住民に避難しないように諭達したが、間もなく桜島が大爆発を起こし、測候所の回答を信用した知識階級が逃げ遅れて遭難した。
川上は助かったが、住民にこうした諭達を行ったことを悔い、「住民は桜島の異変を知ったら測候所を信頼しないで直ちに避難せよ」との主旨の記念碑を建立することを念願した。川上はこれを果たせずに死去したため、噴火から10周年を迎えた1924年1月に、川上の後任の村長・野添八百蔵が建立を果たした。
碑文は、当時の鹿児島新聞(現:南日本新聞)の記者・牧暁村が執筆したが、自らの判断で「測候所」を「理論」とぼかして「理論ニ信頼セス」としたことから、この碑が「科学不信の碑」として知られることになった。
この大正大噴火の被害を伝える石碑は他にもあり、いずれも噴火時の桜島からの避難者らが移住先で建立したものが多く、大隅半島を中心に鹿児島県内に約50基確認されている。
私が照国神社の大鳥居近くで見かけた“桜島爆発記念碑”は,そのうちの1つなんやろう。
碑文をしっかり読んどけばよかったなぁ~
鹿児島市立東桜島小学校の碑文を見てみたいなぁ~
“桜島爆発記念碑”・・・特に“爆発”という名前に・・・
私はその直前に城山に上って噴煙を上げる桜島を眺めたばかり。
自然の驚異というか,桁外れのエネルギーを感じたというか・・・
鹿児島市内の道路脇には,火山灰を集める表示と袋に入った火山灰があった。
自動車のガラスやボデイは火山灰で灰色に汚れ・・・
後日,鹿児島港で桜島を眺めていたら,突然「ドン!」という鈍い音。
もしかしたら・・・今のは噴火の音???
桜島の山頂をよく見たら,黒い噴煙が上ってきた。
思わず感動して声を出してしまった。
タクシーに乗って桜島の噴火を見た話をしたけど,運転手はいつものことと相手にもしてくれへんかった・・・
@櫻島爆發記念碑
1914年(大正3年)1月12日の鹿児島県桜島の噴火災害の後に建てられた石碑(災害記念碑)であり、複数存在するが、中でも1924年(大正13年)1月に当時の鹿児島県鹿児島郡東桜島村大字湯之(現:鹿児島県鹿児島市東桜島町)に建立された碑を指すことが多い。
石碑の現在の所在地は、鹿児島県鹿児島市東桜島町にある鹿児島市立東桜島小学校の敷地内となっている。
その碑文の内容は、
大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ
火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ八ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷
者ヲ出セリ其爆發数日前ヨリ地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯
湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數
回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽
シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ信頼セシ知識階
級ノ人却テ災禍ニ罹り村長一行ハ難ヲ避クル地ナク各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中
山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論
ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ
何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス
大正十三年一月 東櫻島村
碑文は、当時の東桜島村長・川上福次郎が、桜島の異変から、鹿児島測候所(現:鹿児島地方気象台)に数回問い合わせたが、回答は「櫻島ニハ噴火ナシ」であった。村長はこの回答を信じ、住民に避難しないように諭達したが、間もなく桜島が大爆発を起こし、測候所の回答を信用した知識階級が逃げ遅れて遭難した。
川上は助かったが、住民にこうした諭達を行ったことを悔い、「住民は桜島の異変を知ったら測候所を信頼しないで直ちに避難せよ」との主旨の記念碑を建立することを念願した。川上はこれを果たせずに死去したため、噴火から10周年を迎えた1924年1月に、川上の後任の村長・野添八百蔵が建立を果たした。
碑文は、当時の鹿児島新聞(現:南日本新聞)の記者・牧暁村が執筆したが、自らの判断で「測候所」を「理論」とぼかして「理論ニ信頼セス」としたことから、この碑が「科学不信の碑」として知られることになった。
この大正大噴火の被害を伝える石碑は他にもあり、いずれも噴火時の桜島からの避難者らが移住先で建立したものが多く、大隅半島を中心に鹿児島県内に約50基確認されている。
私が照国神社の大鳥居近くで見かけた“桜島爆発記念碑”は,そのうちの1つなんやろう。
碑文をしっかり読んどけばよかったなぁ~
鹿児島市立東桜島小学校の碑文を見てみたいなぁ~
不肖の弟子としては、是非行って頂きたいのですが・・
優秀且つ熱心な方が多いので・・・ネ。残念です。
アホな質問ですが、有馬の皇子と関係は無いのですか。
なんか妙に気に為るのですが、、、当て外れだったらごめんなさい。
>明日には見学会。でも・・・働いてるのよ・・・
明日に行けるかは分かりませんが,近々行ってレポします!
>有馬の皇子と関係は無いのですか。
なんて難しい質問を!
来週の宿題ということで・・・
有馬の皇子の話を色々して,はたと気付きました!!
ナント、大津皇子と勘違い><:
申し訳ありませんお騒がせでっす<(__)>
余程の事が無い限り絶対飛んで行って知らせてくださると、も、話してましたよ。。
>ナント、大津皇子と勘違い><:
宿題が無くなったので本当にラッキーです!
難しい宿題は苦手です・・・