吉野山中・吉野神宮から車で少し上ったところに“村上義光”の墓があった。
なんと、その墓前には兜武者の人形が飾られていた。
解説板を読むと信州更科の人であったという。
毎週見ているNHK大河ドラマ“風林火山”でも、
信玄のライバルとして“村上義清”が登場する。
調べてみると、
「村上氏が歴史上に大きな足跡を残したのは、村上義光(よしてる)と義隆父子の活躍であった。元弘の乱に義光は子の義隆とともに護良親王に従った。元弘元年(1331)の笠置城陥落によって、親王は十津川を経て高野山に逃れたが、その翌々年、足利氏の攻撃を受けて吉野が落ちたとき、義光は親王の身代わりとなって戦死した。子の義隆は親王を守って吉野を脱出したが、義隆も親王の身代わりとなって戦死し、親王は義光・義隆父子の忠死によって虎口を脱出することができたのである。これは『太平記』に記されたところで、歴史的事実としては疑われる節もあるが、村上氏が大塔宮護良親王に尽したことは間違いないことである。」とあった。
村上義清氏も村上義光氏と同じ清和源氏頼信流だとか・・・(ご親戚?)
吉野が、なぜ何度も歴史の舞台になるのかが不思議だ・・・
そして吉野と風林火山が結びついたことにも一つの縁を感じた。
なんと、その墓前には兜武者の人形が飾られていた。
解説板を読むと信州更科の人であったという。
毎週見ているNHK大河ドラマ“風林火山”でも、
信玄のライバルとして“村上義清”が登場する。
調べてみると、
「村上氏が歴史上に大きな足跡を残したのは、村上義光(よしてる)と義隆父子の活躍であった。元弘の乱に義光は子の義隆とともに護良親王に従った。元弘元年(1331)の笠置城陥落によって、親王は十津川を経て高野山に逃れたが、その翌々年、足利氏の攻撃を受けて吉野が落ちたとき、義光は親王の身代わりとなって戦死した。子の義隆は親王を守って吉野を脱出したが、義隆も親王の身代わりとなって戦死し、親王は義光・義隆父子の忠死によって虎口を脱出することができたのである。これは『太平記』に記されたところで、歴史的事実としては疑われる節もあるが、村上氏が大塔宮護良親王に尽したことは間違いないことである。」とあった。
村上義清氏も村上義光氏と同じ清和源氏頼信流だとか・・・(ご親戚?)
吉野が、なぜ何度も歴史の舞台になるのかが不思議だ・・・
そして吉野と風林火山が結びついたことにも一つの縁を感じた。
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