大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

多聞城跡

2009年04月22日 | 奈良市
先日のTV『世界遺産』は「東大寺」やった。
そのTV番組で,東大寺が何度か焼けたことを云っていた
先日,奈良の北部,東大寺を見下ろす高台へ。
かつてここには「多聞城」という城があったという。
近世城郭には「多聞櫓」と呼ばれる長櫓が多く見受けられるが,その「多聞櫓」の元となった のが,この「多聞城」なのだそうだ。
天文15年(1543)、室町幕府14代将軍に就任した足利義輝は,台頭してきた三好長慶の勢力におされて京都に滞留することさえおぼつかなくなった。それでも義輝は三好政権に対し執念深い敵意を続け、抵抗をやめなかった。永禄8年(1565)三好三人衆と組んだ松永久秀は、京都勘解由小路御 所に義輝を襲撃して自害させ、義輝の従兄弟にあたる義栄を阿波から招いて15代将軍にすえたのである。
同10年松永久秀は佐保丘陵の東南隅に櫓の一方を横に長くとって長屋形式の櫓とする城を築き信貴山城から移って居城とした。同年10月10日、松永久秀が三好三人衆・筒井順慶と戦ったとき、この城から出陣して東大寺大仏殿を焼いた。
元亀4年(1573)5月、武田信玄と誼を通じて織田信長の勢力に対抗したが、結局、降伏して多聞城を明け渡した。のちに城は破却され、建物は二条城にはこばれ、石垣は大和郡山城の築城に使用されたと云う。
久秀は信長に叛旗を翻して謀反を繰り返した末に天下の名物茶器、平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死したという。
城跡に立ち,歴史を感じながらのひと時やった・・・
奈良にとって東大寺って一体どんな存在なんやろうかなぁ~
「写真;多聞城跡」


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