年末、安倍文殊院の前を通っていたのは、父が入院していた病院へと向かうためでした。
以下の文は、葬儀での私の挨拶です。
一言ご挨拶を申しあげます。
私は、故人の長男でございます。
本日は父の葬式にあたりまして、みなさまにはご多忙のところ、ご会葬・ご焼香賜りますことまことにありがとうございます。
また、ご丁重なる弔電をいただきまして、故人も深く感銘していることと存じます。
ここに、故人にかわりまして、生前のご厚誼に対し厚く御礼申しあげますとともに、今後とも私ども遺族のため変わりなきご厚情を賜りますようお願い申しあげます。
私はここ数日、自宅やこの会館で「西国三十三所のご詠歌」を唱えさせて貰っているのですが、「まつかぜや おとはの」で始まる第16番札所;京の清水寺のご詠歌を唱えるときに、昔見た父が“大西良慶さん”を背負っている写真のことを思い出しているのです。
私がまだ高校生か大学に入学したばかりの頃、父は、京の清水寺の貫首を務められ、五つ子の名付け親で107歳の当時の長寿記録を持っておられた“大西良慶”さんを“おんぶ”して、多武峰にある“良慶さんの”ご先祖の墓参りのお手伝いをさせてもらったことがありました。
その御礼として清水寺に招かれ、御殿のような座敷に通してもらい、良慶さん(百五歳の時の)「書」を戴いたんやという自慢話をよく聞かされました。
良慶さんのお家は、明治の廃仏毀釈の頃に談山神社(昔の妙楽寺)を降りられたお家で、私の家は、大化の改新のすぐ後ぐらいから談山神社に勤め、江戸時代の初めに神社を降りて現在の地に住むようになったと聞いているので、昔々は同じ談山神社の境内でご近所さんやったんかも知れへんなぁ~
これは何か不思議なご縁やないかと父は言っていたのです。
きっと今頃父は、“良慶さん”から「ゆっくりしいや」と言ってもらっていることでしょう。
もしかしたら今回は反対に“良慶さん”に背負われて、あの世へと歩んでいるのかも知れません。
本日はおかげさまをもちまして、とどこおりなく葬式をとりおこなわせていただくことができました。
厚く御礼申しあげまして、ご挨拶とさせていただきます。
以下の文は、葬儀での私の挨拶です。
一言ご挨拶を申しあげます。
私は、故人の長男でございます。
本日は父の葬式にあたりまして、みなさまにはご多忙のところ、ご会葬・ご焼香賜りますことまことにありがとうございます。
また、ご丁重なる弔電をいただきまして、故人も深く感銘していることと存じます。
ここに、故人にかわりまして、生前のご厚誼に対し厚く御礼申しあげますとともに、今後とも私ども遺族のため変わりなきご厚情を賜りますようお願い申しあげます。
私はここ数日、自宅やこの会館で「西国三十三所のご詠歌」を唱えさせて貰っているのですが、「まつかぜや おとはの」で始まる第16番札所;京の清水寺のご詠歌を唱えるときに、昔見た父が“大西良慶さん”を背負っている写真のことを思い出しているのです。
私がまだ高校生か大学に入学したばかりの頃、父は、京の清水寺の貫首を務められ、五つ子の名付け親で107歳の当時の長寿記録を持っておられた“大西良慶”さんを“おんぶ”して、多武峰にある“良慶さんの”ご先祖の墓参りのお手伝いをさせてもらったことがありました。
その御礼として清水寺に招かれ、御殿のような座敷に通してもらい、良慶さん(百五歳の時の)「書」を戴いたんやという自慢話をよく聞かされました。
良慶さんのお家は、明治の廃仏毀釈の頃に談山神社(昔の妙楽寺)を降りられたお家で、私の家は、大化の改新のすぐ後ぐらいから談山神社に勤め、江戸時代の初めに神社を降りて現在の地に住むようになったと聞いているので、昔々は同じ談山神社の境内でご近所さんやったんかも知れへんなぁ~
これは何か不思議なご縁やないかと父は言っていたのです。
きっと今頃父は、“良慶さん”から「ゆっくりしいや」と言ってもらっていることでしょう。
もしかしたら今回は反対に“良慶さん”に背負われて、あの世へと歩んでいるのかも知れません。
本日はおかげさまをもちまして、とどこおりなく葬式をとりおこなわせていただくことができました。
厚く御礼申しあげまして、ご挨拶とさせていただきます。
少し前のブログの、畑のお話やお花のお話など、お父様との会話が思い出されて胸がつまります。
でも、瓜亀仙人さんのご挨拶を読ませていただくと、お別れは名残惜しいものの、お幸せで充実した人生を歩まれたことが感じられました。
大西良慶様と今はきっとゆっくりお話をされていることでしょうね。
まだまだお気持ちの整理がつかないこととは思います。
お父様のご冥福をお祈り申し上げます。