ブログご無沙汰してしまいました。
無事、父の三ー七日を終えることができました。
まだまだ心が落ち着かない状態が続いています。
以下の文は、通夜の私の挨拶です。
本日はみなさまご多忙のところ、父の通夜に多数参列いただきありがとうございます。
きっと父も喜んでいることでしょう。
一言御礼の言葉を述べさせていただきます。
昨年の7月末、父は急に「食べられへん」と言いだしました。
病院に行って検査をしてもらうと、突然、私たちは余命を宣告されてしまいました。
それは本当にわずかな時間しか残されていませんでした。
違うことで病院通いをしていただけに、なぜ今まで分からなかったのか、共に暮らす家族として気づくことができなかったのか残念でなりませんでした。
父は5年前に突然連合い(母)を亡くしましています。
父の闘病生活が始まったのですが、父はとても心細かったことだと思います。
あんなに頑丈な身体をもった親父でも、とうとう今回だけは病気に勝つことができませんでした。
息子の目から見ますと、父はこの多武峰谷の自然や文化を誰よりも愛した男でした。
雨が降って家の前を流れる寺川が増水すると、「濁りを掬って来る。」と言って長い柄のついた網を持って家の前を流れる寺川に行き、帰って来るまで流されたのではないかと母と心配しました。
その寺川に友人らと鮎やアマゴの放流をしていました。
夏になると昼食後は必ず鮎釣りに竿を持ってでかけ、仕事があるのになかなか帰って来ません。
そして、待ちくたびれて先に田畑に行った母を叱っていました。
秋、落ち鮎を獲るのに私は網の端を持たされ、上手く獲れず鮎に逃げられたときは大声で怒鳴られました。
日々の生活では、来る日も来る日も田畑を耕しました。キュウリ、カボチャ、スイカ、大根、白菜、キャベツ、サンド豆、エンドウ・・・親父にこき使われる母が可哀想でした。
私も手伝い、農業の厳しさ辛さを嫌と言うほど味わいました。大きくなったら百姓だけは継ぐまい、しっかり勉強して毎月給料をもらえるような大人になりたいと決心しました。
さらに、山の木を切り、杉や檜苗の植林をしました。
切り倒した木を整理するのに“とんど(火で燃やす)”をしたのですが、違う処に火が移ったり、夜になっても火が消えずに困ったことがありました。木を切る際、逃げ遅れて倒れて来る木の下敷きになりそうになったこともありました。
夏の暑さの中で下草を刈る作業は大変でした。父と並んで草を刈っていても、蜂に刺されるのは決まって父でした。
また、長い梯子に登って枝打ちをしました。身体を動かして山で食べたジャコと鰹節の入った弁当、本当に美味しかったです。
父は神社やお寺の役をよくしていました。
氏神様の役、檀家である寺の役、檀家ではないのですが聖林寺や安倍文殊院にもよく通っていました。
平成○○年には、永年、談山神社の神幸祭の世話方をしていたことにより神社庁から表彰状を戴きました。
今日、こうして父が父らしく、“本家の坊”が“本家の坊”らしく、自由気ままにその生涯を終えることができましたことは、ここにおられる皆様方のご理解と支えがあってのことだと感謝いたしております。
こんな父でしたので、父の言動に気分を害された方もおられるかと思いますが、今日・この場をもってお許しいただけたらと思います。
本日は本当にありがとうございました。
無事、父の三ー七日を終えることができました。
まだまだ心が落ち着かない状態が続いています。
以下の文は、通夜の私の挨拶です。
本日はみなさまご多忙のところ、父の通夜に多数参列いただきありがとうございます。
きっと父も喜んでいることでしょう。
一言御礼の言葉を述べさせていただきます。
昨年の7月末、父は急に「食べられへん」と言いだしました。
病院に行って検査をしてもらうと、突然、私たちは余命を宣告されてしまいました。
それは本当にわずかな時間しか残されていませんでした。
違うことで病院通いをしていただけに、なぜ今まで分からなかったのか、共に暮らす家族として気づくことができなかったのか残念でなりませんでした。
父は5年前に突然連合い(母)を亡くしましています。
父の闘病生活が始まったのですが、父はとても心細かったことだと思います。
あんなに頑丈な身体をもった親父でも、とうとう今回だけは病気に勝つことができませんでした。
息子の目から見ますと、父はこの多武峰谷の自然や文化を誰よりも愛した男でした。
雨が降って家の前を流れる寺川が増水すると、「濁りを掬って来る。」と言って長い柄のついた網を持って家の前を流れる寺川に行き、帰って来るまで流されたのではないかと母と心配しました。
その寺川に友人らと鮎やアマゴの放流をしていました。
夏になると昼食後は必ず鮎釣りに竿を持ってでかけ、仕事があるのになかなか帰って来ません。
そして、待ちくたびれて先に田畑に行った母を叱っていました。
秋、落ち鮎を獲るのに私は網の端を持たされ、上手く獲れず鮎に逃げられたときは大声で怒鳴られました。
日々の生活では、来る日も来る日も田畑を耕しました。キュウリ、カボチャ、スイカ、大根、白菜、キャベツ、サンド豆、エンドウ・・・親父にこき使われる母が可哀想でした。
私も手伝い、農業の厳しさ辛さを嫌と言うほど味わいました。大きくなったら百姓だけは継ぐまい、しっかり勉強して毎月給料をもらえるような大人になりたいと決心しました。
さらに、山の木を切り、杉や檜苗の植林をしました。
切り倒した木を整理するのに“とんど(火で燃やす)”をしたのですが、違う処に火が移ったり、夜になっても火が消えずに困ったことがありました。木を切る際、逃げ遅れて倒れて来る木の下敷きになりそうになったこともありました。
夏の暑さの中で下草を刈る作業は大変でした。父と並んで草を刈っていても、蜂に刺されるのは決まって父でした。
また、長い梯子に登って枝打ちをしました。身体を動かして山で食べたジャコと鰹節の入った弁当、本当に美味しかったです。
父は神社やお寺の役をよくしていました。
氏神様の役、檀家である寺の役、檀家ではないのですが聖林寺や安倍文殊院にもよく通っていました。
平成○○年には、永年、談山神社の神幸祭の世話方をしていたことにより神社庁から表彰状を戴きました。
今日、こうして父が父らしく、“本家の坊”が“本家の坊”らしく、自由気ままにその生涯を終えることができましたことは、ここにおられる皆様方のご理解と支えがあってのことだと感謝いたしております。
こんな父でしたので、父の言動に気分を害された方もおられるかと思いますが、今日・この場をもってお許しいただけたらと思います。
本日は本当にありがとうございました。
お父様を思う瓜亀さんのお気持ちが溢れたご挨拶、列席の皆様も心を打たれたことでしょう。 私も貰い泣き… 合掌
いつかはとしても、本当に悔しい思いをなさったことです。
沢山の役割を果たされました。誇らしい一生だったと拝察します。合掌。
私の父も、夏から食べたくないと母を困らせていましたが。。
本当に困っていたのは父で、いやしんぼうだったとは言え母から強要されてたんですもの。
12月の晦日前に逝き7年すぎました。
私は親不孝ゆえ、死に目に会えませんでした。
日にち薬とはよく言ったものです、お気落としされませんように。
お尊父さまの、ご冥福をお祈りいたします。
あたたかいお言葉ありがとうございました。
少しずつですが、ブログを再開する元気が出てきました。
また、ブログを再開することで元気が湧いてきているように感じます。
すべて皆さま方のおかげです。
これからもよろしくお願いします。
※写真は病室から眺めた多武峰方向の風景です。
一番高い山は音羽山。
その右に御破裂山。ここに談山神社があります。
手前の右の丘に安倍文殊院があります。
住宅地を挟んで左の丘が土舞台。
聖徳太子が開いた日本で最初の芸能の地だとされています。
ブログを読んでいる間に、大変な文字に出会い、
一生懸命探してここまで来ました。
ブログにたびたび登場して、ほっと心を和ませてく
ださったお父様に、心よりお悔やみを申し上げます。
お母様がなくなられて、少し気落ちをされているような
気はしましたが、まさかお亡くなりになっていたとは・・・。
何歳だったのでしょうか?
ブログにも、準主役として、いつも陰になり日向に
なり・・・と登場されていてとても親近感がありました。
趣味を越えた園芸を、父上様の指導の遺産として
これからも続けてくださいね。
ブログの合間に出てくる結納のお話に救われる思い
でした。
一人減り、一人増え・・・、世の中はやはり動いて
行くのですね。