あの日,大阪城南外堀沿いに西へ。
お堀が終わると,大阪府警とNHK大阪に挟まれた本町通りを御堂筋と交わる本町三丁目交叉点まで出た。
そこで地下鉄に乗ろうかと考えたんやけど,天気もええから,このまま難波まで歩くことにした。
御堂筋をミナミに歩き出してしばらくすると,道の向こう側(西側)に大きな建物!
その建物にあった看板を読んで,歩いてきた「御堂筋」の意味がようやく分かった。
@真宗大谷派難波別院
大阪府大阪市中央区にある真宗大谷派の寺院。同派の別院。通称は、「南御堂」(みなみみどう)。
大阪市内の中心を南北に走る御堂筋の名は、「南御堂」と「北御堂」(浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院)とを繋ぐ道であることに由来する。
天正11年(1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築城する。城下町の町制と整備とに着手。
文禄4年(1595年)、秀吉より寺地を寄進され、東本願寺十二代 教如が「大坂渡辺の地」に大谷本願寺を開創する。
文禄5年(1596年)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造(現存)。
慶長2年〈1597年〉に、「准如を十二代法主とする本願寺教団(現、浄土真宗本願寺派)」の津村御坊(現在の本願寺津村別院〈北御堂〉)が建立される。
慶長3年(1598年)、大坂城の城下町の拡大により、大谷本願寺が現在地への移転を秀吉より命じられる。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、東本願寺が分立し寺基を移すまで、当寺は、教如を十二代法主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)の実質上の本山であった。
京都に東本願寺が建立後は、大坂の大谷本願寺の地を「難波御堂」とし、大坂における教如の本願寺教団の拠点寺院として、商人をはじめとする同地の門徒の篤い崇敬を集めるとともに、「南御堂」、「難波の御堂」と称されて、広く人々に親しまれ現在に至っている。
お堀が終わると,大阪府警とNHK大阪に挟まれた本町通りを御堂筋と交わる本町三丁目交叉点まで出た。
そこで地下鉄に乗ろうかと考えたんやけど,天気もええから,このまま難波まで歩くことにした。
御堂筋をミナミに歩き出してしばらくすると,道の向こう側(西側)に大きな建物!
その建物にあった看板を読んで,歩いてきた「御堂筋」の意味がようやく分かった。
@真宗大谷派難波別院
大阪府大阪市中央区にある真宗大谷派の寺院。同派の別院。通称は、「南御堂」(みなみみどう)。
大阪市内の中心を南北に走る御堂筋の名は、「南御堂」と「北御堂」(浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院)とを繋ぐ道であることに由来する。
天正11年(1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築城する。城下町の町制と整備とに着手。
文禄4年(1595年)、秀吉より寺地を寄進され、東本願寺十二代 教如が「大坂渡辺の地」に大谷本願寺を開創する。
文禄5年(1596年)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造(現存)。
慶長2年〈1597年〉に、「准如を十二代法主とする本願寺教団(現、浄土真宗本願寺派)」の津村御坊(現在の本願寺津村別院〈北御堂〉)が建立される。
慶長3年(1598年)、大坂城の城下町の拡大により、大谷本願寺が現在地への移転を秀吉より命じられる。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、東本願寺が分立し寺基を移すまで、当寺は、教如を十二代法主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)の実質上の本山であった。
京都に東本願寺が建立後は、大坂の大谷本願寺の地を「難波御堂」とし、大坂における教如の本願寺教団の拠点寺院として、商人をはじめとする同地の門徒の篤い崇敬を集めるとともに、「南御堂」、「難波の御堂」と称されて、広く人々に親しまれ現在に至っている。
この季節,特に今年,湖北に行くのは雪見をしに行くようなものですよ。
大阪も楽しいトコです!