大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

石州麺

2010年04月26日 | 大和郡山市
茨木門の下で,かなりの間蓑虫と遊んだ。
もう1000円分ほど遊んだと思ったら,拝観料のことが惜しくなくなった。
せっかくここまで来たんやから,抹茶を戴いて帰ろうという気になった。
右手に見える書院が気になるが,受付のある左 手の建物へ狭い植え込みの間を歩いた。
下駄箱には「履き間違いに注意」の張り紙にかなり詳しい解説が・・・
どうやら,自分で小さな紙に名前を書いて,その紙を洗濯ばさみで自分の靴に挟むという作法?のよう。
渡し,先日,靴の履き間違いの後処理で嫌な思いをしたばかり・・・
これも「詫び寂び」?
靴を脱いでのぼると受付。
その受付にはだれもいない。
受付のカウンターの上には,いろんな茶道に関するものが土産?として売られていた。
その中に「石州麺」があった。
安藤百福 監修の「ラーメンのルーツを探る『進化する麺食文化』」という本の中では,
「・・・ この索麺を作るのに油を塗った り、加えないものが江戸初期にありました。これは旧来の奈良時代からあった麦縄の系列で、デンプン(クズ粉やカタクリ粉 <本物のカタクリの根茎からとるデンプン> )を打ち粉に使い、そうめんのように二本の管にかけますが、乾燥させる途中で麺棒で押して平たく、長くして機にかけて引き延ばす油不入そうめんです。その油不入そうめんは大和小泉の特産で相国寺の鳳林和尚は茶道石州流を開いた片桐貞昌を訪れ、大量に仕入れ、京へ運んでいます。慈光院か高林庵の茶室で石州自らが仕立てた油不入そうめんを馳走になっています。石州は懐石料理がとても上手な方でした。油を麺条に塗らないこの索麺を当時は別名 小泉の平そうめんと呼んでいました。油不入そうめんの名がはじめて書かれるのは相国寺の日記である『隔冥記』寛文元(一六六一)年七月一日の条であります。 ・・・」とあるそうだ。
石州が金閣寺の鳳林和尚を茶懐石でもてなした際、出された油不入素麺のあまりの美味しさに驚いた鳳林和尚は、慈光院に何度も使者を送って京へ持ち帰ったという。
そして交流のあった上皇や公家、大名に差し上げたところたいそう喜ばれ、「石州侯の油不入素麺」は,文化人たちの間では知る人ぞ知る慈光院の名物になった。
ちなみに,その大名のひとり秋田佐竹藩の藩主が,国に持ち帰り広まったのが「 稲庭うどん」だという。
私,石州麺を記念に買おうかと思ったけど,またの機会にすることにした。
我が家には,大量の三輪素麺が残っているから。
稲庭うどんを食べに東北へ行ってみたいなぁ~
「写真;慈光院の受付にあった石州麺」

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