あの日、“淀川三十石船舟唄”と“天満の子守歌”の碑を見た公園で、次に見つけたのが、“将棋島粗朶水制跡の碑”やった。
解説板には、難しいコトが書かれていた。
@将棋島粗朶水制跡
将棋島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流して水害を引き起すのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて二三六間(約430m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅七間(約13m)あった。
淀川治水のため、明治6年(1873)に来日したオランダ人技術者デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの三人は、その翌年、将棋島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。
これは木の枝を束ね、組合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向って設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。
この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも旭区の城北公園北側の淀川左岸にそのなごりを留める。
デレーケは来日してから29年間、大阪に留まり、淀川の治水と大阪港の建設に尽力した。
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