以前、桜井市出雲で「野見宿禰塚跡」の解説板を見かけ、塚跡を探したけれど、結局見つけられなかったことをブログに書いた。
今回は再チャレンジ!
地元の方に聞いて、道が難しいからとその方が塚跡近くまで案内して下さった。
塚の周囲の田んぼは稲刈りの最中。
塚の近くに咲いていた彼岸花が美しかった!
同じ出雲にある「十二柱神社」には、野見宿禰塚にあった五輪塔が移され祀られているという。
「十二柱神社」に行きたくなった。
それから「ダンノダイラ」にも・・・
@相撲開祖野見宿禰五輪塔由来
垂仁天皇の御代、天皇は野見宿禰と当麻蹴速を三輪山西麓の皇居纏向珠城宮に召して相撲をとらせ、宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記載されてある。
その相撲跡カタヤケシは現桜井市大字穴師にあり、相撲起源の伝承地として広く世に知られている。
当出雲地区には、古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い、墳上の塔をここに移して祀った。
物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されるが、出雲村の宿禰がこの地より珠城宮に召された伝承は、神話伝説の構成と大和王朝の成立過程、万葉集の歴史地理の調査、研究から考察して史実の反影を示す重要な存在であることは明らかである。
よってここに日本建国の功労者、相撲開祖及び土師氏の祖、野見宿禰の五輪塔由来を記し、その旧跡とこの文化遺産を長く世に伝えたいと思う。
昭和四十年十二月
財団法人日本相撲協会 相撲博物館嘱託 池田雅雄謹説・・・
@「出雲(いずも)ムラ」の伝誦
・「野見宿禰(のみすくね)」さん
日本の国技相撲の発祥(はじまり)である--当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲して勝った「野見宿禰」さんは、この「出雲」に住んでいた。野見宿禰塚は明治16年まで、出雲村大字太田小字塔の下にあった。
「野見宿禰」さんは、相撲の神様であり、埴輪(はにわ)の神様であることが日本書紀に記されている。
さらに、「野見宿禰」さんは、古墳時代に殉死の悪習をやめて、埴輪に改革した名アイデアマンで、知徳の神様でもあった。
・五輪塔
高さ2.85メートルの巨大な五輪塔は、鎌倉時代のもので野見宿禰塚の上にあった。四面に単独梵字仏(ぼんじぶつ)(20体)と、地輪(じりん)に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔である。
・狛犬(こまいぬ)と、それを支える力士像
土師部(はじべ)(上代、土器作り部民)の子孫が土器作りの高い技能と経験を石材彫刻に活用した埴輪の味がする芸術作品である。更に、狛犬を支える力士像(8体)は、それぞれ異なった姿形力士像で写実的に力強く表現しており、相撲と埴輪の集大成した傑作である。
・「出雲ムラ」の土人形
明治のはじめ頃まで「出雲ムラ」あげて土人形作りをしておった。(窯元(かまもと)10軒、売店30軒、当時出雲ムラ戸数110)。当時の出雲ムラの地場産業(じばさんぎょう)で、ムラは大いに賑わっていた。(日本古代史の周辺--金谷克己著より)その古作品が近年、相次いで発現している。
・出雲人形
明治後期から水野徳造氏が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を作った。現在、水野佳珠(かず)さんが、後継者として活躍中。
・その他
いままで、未知の「出雲ムラ」の古代の姿が、次から次へと新発現してきた
奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会
今回は再チャレンジ!
地元の方に聞いて、道が難しいからとその方が塚跡近くまで案内して下さった。
塚の周囲の田んぼは稲刈りの最中。
塚の近くに咲いていた彼岸花が美しかった!
同じ出雲にある「十二柱神社」には、野見宿禰塚にあった五輪塔が移され祀られているという。
「十二柱神社」に行きたくなった。
それから「ダンノダイラ」にも・・・
@相撲開祖野見宿禰五輪塔由来
垂仁天皇の御代、天皇は野見宿禰と当麻蹴速を三輪山西麓の皇居纏向珠城宮に召して相撲をとらせ、宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記載されてある。
その相撲跡カタヤケシは現桜井市大字穴師にあり、相撲起源の伝承地として広く世に知られている。
当出雲地区には、古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い、墳上の塔をここに移して祀った。
物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されるが、出雲村の宿禰がこの地より珠城宮に召された伝承は、神話伝説の構成と大和王朝の成立過程、万葉集の歴史地理の調査、研究から考察して史実の反影を示す重要な存在であることは明らかである。
よってここに日本建国の功労者、相撲開祖及び土師氏の祖、野見宿禰の五輪塔由来を記し、その旧跡とこの文化遺産を長く世に伝えたいと思う。
昭和四十年十二月
財団法人日本相撲協会 相撲博物館嘱託 池田雅雄謹説・・・
@「出雲(いずも)ムラ」の伝誦
・「野見宿禰(のみすくね)」さん
日本の国技相撲の発祥(はじまり)である--当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲して勝った「野見宿禰」さんは、この「出雲」に住んでいた。野見宿禰塚は明治16年まで、出雲村大字太田小字塔の下にあった。
「野見宿禰」さんは、相撲の神様であり、埴輪(はにわ)の神様であることが日本書紀に記されている。
さらに、「野見宿禰」さんは、古墳時代に殉死の悪習をやめて、埴輪に改革した名アイデアマンで、知徳の神様でもあった。
・五輪塔
高さ2.85メートルの巨大な五輪塔は、鎌倉時代のもので野見宿禰塚の上にあった。四面に単独梵字仏(ぼんじぶつ)(20体)と、地輪(じりん)に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔である。
・狛犬(こまいぬ)と、それを支える力士像
土師部(はじべ)(上代、土器作り部民)の子孫が土器作りの高い技能と経験を石材彫刻に活用した埴輪の味がする芸術作品である。更に、狛犬を支える力士像(8体)は、それぞれ異なった姿形力士像で写実的に力強く表現しており、相撲と埴輪の集大成した傑作である。
・「出雲ムラ」の土人形
明治のはじめ頃まで「出雲ムラ」あげて土人形作りをしておった。(窯元(かまもと)10軒、売店30軒、当時出雲ムラ戸数110)。当時の出雲ムラの地場産業(じばさんぎょう)で、ムラは大いに賑わっていた。(日本古代史の周辺--金谷克己著より)その古作品が近年、相次いで発現している。
・出雲人形
明治後期から水野徳造氏が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を作った。現在、水野佳珠(かず)さんが、後継者として活躍中。
・その他
いままで、未知の「出雲ムラ」の古代の姿が、次から次へと新発現してきた
奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会
素敵ですね~。
こーゆー風景が普通にあるから、奈良っていいですよね。
農地解放は太平洋戦争の後???
フランスの事前学習、進んでいるようですね。
秋のパリ、ええやろなぁ~
稲刈りの最中(準備中?)だったので、コンバインが入るように周囲の稲を刈っておられました。
その稲が碑の上に置かれていて、それがお供えのようでした。
彼岸花も美しかったです!
最近、「出雲」のことをもっと知りたいと思うようになりました。
山陰の出雲との関係?
神話の世界「国ゆづり」?
ますます謎が深まっています。