大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

猿沢池の畔

2008年12月03日 | 奈良市
“高札”を見たあと、“猿沢池”の西畔にある“采女神社”へ。
奈良に都があった頃、天皇の寵愛が薄れたのを嘆いて猿沢池へ身投げした采女さんの霊を慰めるため、池の畔に建てられた祠なのだそうだ。
この神社の伝説・祭のことは、以前このブログでアップした。
この神社の社が、鳥居に背を向けて建っているのは、采女さんが池を見るのが辛いため、一夜にして社が反対を向いたとのこと。
早朝だったので神社の扉が開いていなかったから、写真を撮ったけど、社が背を向けて建っているかどうか分からない写真になってしまった。
“猿沢池”の東の畔には、石塔と采女地蔵、采 女伝説の解説板。
その解説を読んで、な ぜ“猿沢池”の畔に柳の木が植えられているのかが分かった。
石塔の横の柳は“衣掛柳”。
采女が猿沢池に身を投げるとき、柳の木に衣を掛けたからだそうだ。
采女のことは「大和物語」に書かれ、哀悼歌を柿本人麿と、采女を邪険にした帝が詠い、「藻の下にいるなら、水が乾けばよいのに」と嘆き、また、清少納言も「枕草子」に書いているとのこと。
 我妹子が 寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき  人麿
 猿沢の池もつらしな我妹子が 玉藻かつかば 水もひなまし  帝
その後、私は周囲約360mの池を一周した。
“猿沢池”は興福寺の放生池で、749年(天平21年)頃に印度の仏跡「瀰猴(びこう)池」を模して築造された。
奈良に海はないが遙か遠く竜宮に通じて、昔から龍神伝説が語られているという。これを基にした芥川龍之介の短編小説「竜」では、日頃先が赤い大きな鼻をからかわれていた恵印法師が、池の畔に「3月3日この池より竜昇らん」と書いた立札を立てたら、十丈余りの黒竜が空に舞い昇ったと書いている。
この“猿沢池”は昔から、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚が七部に水三部」と云われているそうだ。
「写真;猿沢池と興福寺五重塔、采女地蔵、衣掛柳」


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