江戸時代の版元などについて
江戸時代の版元とは、書籍や浮世絵などの出版を行い、その責任を負っていた事業主のことを指します。
版元は、編集から製作、卸、小売、古書の売買までを一手に担っていました
版元は、印刷物を製作するために不可欠な「版」を持っている事業主を指す言葉です。
江戸時代には版木の製作から印刷・販売までが一貫して行われており、版木を所有していた書物問屋や地本問屋などを指して「版元」と呼んでいました。
江戸時代の版元には、次のような人物や問屋などがいます。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)
鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)
鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)
和泉屋市兵衛(いずみやいちべえ)
村田屋次郎兵衛(むらたやじろべえ)
西村屋与八(にしむらやよはち)
日本において書類・書籍は古くより作成されていたが、その多くは本文や図画を人の手でもって写し、それに巻子本をはじめとするさまざまな装丁を施して完成させる写本であった。
人々はもし自分が読みたい書籍があった場合、それを持っている者に借りるか、またはそれを手元に置きたければ自分の手で写すしかないのが普通だったのである。
一方それら書籍を印刷することについては、8世紀の百万塔陀羅尼、春日版や五山版と呼ばれる室町時代末までの旧刊本と呼ばれる木版本、またキリシタン版の古活字本などがある。
江戸時代も慶長に入ると朝鮮からもたらされた金属活字をもとにして、朝廷や徳川家康が『論語』や『群書治要』をはじめとする漢籍や、『日本書紀』、『吾妻鏡』など活字を使って印字した書籍が作られた。
しかしこれらはいずれも商業目的で製作頒布されたものではなく、また百万塔陀羅尼は別として、書籍として刷られる部数も100部程度の規模の小さな印刷物であった。
やがて戦国の世を完全に脱して世情が平穏になると、それまでの公家や武士はもとより一般にも教養としての読書が広がった。
その結果多くの人々が本を求め、その欲求に応えるべく書籍を商品とする本屋が現れる。
そして木版で印刷し製本した書籍が商品として大量に作られ、本屋で流通するようになった。
古くは写本によらなければ本を手に入れられなかったのが、大量に製本されて店頭に並ぶことにより、書籍は以前に比べれば一般庶民にも身近なものとなったのである。
寛永年間以降、次第に商業出版が主流となり、活字本から木版本が中心となる(活字本も、これ以後出版されるが、慶長よりおよそ50年程続いた活字版を特に古活字版と言い、近世木活字版と区別する)。
同時代のヨーロッパではグーテンベルク以来、活版印刷が普及しているが、これはヨーロッパで使用される文字がアルファベットであり、日本よりも扱う文字数が遥かに少なかったからである。
なお江戸時代中期の日本においても、初の日蘭辞典であるハルマ和解の刊行においては、オランダ語部分のみであったが活版印刷が行われている。
木版本は整版本とも呼ばれ、当初は仏典や四書、また『伊勢物語』などといった和漢の古典を出版していたが、やがて仮名草子や草双紙といった通俗的な内容のものが浮世絵とともに出版されるようになった。
こうした木版技術と出版流通システムの確立により、多くの出版書籍群が生まれ、明治の活版印刷に取って代わられる19世紀末まで続く。
その中で庶民を含めた不特定多数がその読者として、商業出版の興隆を支えた。
近世に商業出版された書籍は現在も大量に残り、博物館、郷土資料館、図書館などに収蔵され、今でも相当数が古書店などで取引されている。
書店の種類と組合 江戸時代の本屋は書林、書肆、書物屋などさまざまに呼ばれた。
書店名は栄林堂、金花堂などという何々堂や店主名そのままのものがあった。
なお当時売られた書籍はそのほとんどが、地図等を除けば本文用紙に薄い美濃紙を使った袋綴じの装丁であった。
商業活動としての出版はまず京都が最初である。
慶長8年(1603年)、京の冨春堂というところから古活字版の『太平記』が版行されているが、これが商業出版ではなかったかといわれる。
その後七十二軒ともまた十哲とも称された本屋のほか多くの店が現れ、中には近代にまで老舗として書籍を商ったところもあった。
これら京都の本屋は当初は「物の本屋」とも呼ばれており、仏典や漢籍をはじめとする教養書をもっぱら売っている。
やがて大坂でも本屋があらわれたが、当初は京都で製作された本を仕入れて売っていたのを、寛文のころより大坂でも本が作られ売られるようになり、本屋は心斎橋などの繁華街に集まって繁盛した。
江戸では寛永のころには本屋があったというが、江戸でよそから本を仕入れずに自前で製本販売し始めた時期についてははっきりしない。確認できる書籍の例では正保4年(1647年)刊行のものが最も古いという。
江戸の本屋も時代が下るにつれ、その出版物の内容は京大坂同様多岐に渡ったが、ことに錦絵はほかの土地にないものといわれ好評であった。
江戸の出版物の中でも、現代の漫画のような絵入りの読み物である草双紙の類などは「地本」(じほん)と呼ばれた。
地とは京大坂に対して、「地酒」と同じようにその地特有の出版物という意味である。
当時の本屋は編集、製版、製本に小売まで行ったが、取扱う書物の内容で大きく二つの種類に分かれた。
書物問屋 - 学問書など硬派の書籍を扱った。
古くに京都で「物の本屋」と呼ばれた系統。
仏教、歴史、伝記、暦、医学書、漢籍、教養書など。
上方では本屋とも呼び、上方発祥で、後に江戸に支店も出した。
地本問屋 - 草双紙、人情本、細見(地図案内書)、狂歌絵本、洒落本、長唄をはじめとする音曲類の正本、歌舞伎の絵本、浮世絵などといった学術書以外のマスメディア本を扱った。
店頭には浮世絵などが並び、庶民が多く利用した。
ただし当時は、以下のところでも出版物を扱っていた。
板木屋 - 本を印刷するための板木を彫ってつくる板木屋も、書店を通さずに本を売ることがあった。
本屋があらわれた初期には製本や流通販売などの分業が未分化だったことによる。
それらは屋号も「板木屋」とするものがあり、時代が下っても板木屋が直接本を頒布する形態は残った。
表紙屋 - 印刷して塵断ち下綴じまでした本に表紙をつけるのが表紙屋であるが、ここでも板木屋と同様本を売っていた。
表紙屋は江戸時代以前からあったといわれるが、寛永のころから表紙屋でも本を売るようになり、これも後まで残った。
経師屋 - 本の装丁や掛け軸を誂えたりする経師屋も本を売っていたが、なかでも京の経師屋で大経師と呼ばれる家は毎年の暦を製作配布していた。
暦は当時三都のいずれも、決められた店や家以外では製作販売できない決まりであった。
そのほか貸本屋、古本屋でも書籍を取扱ったが、古本屋も現在とは違って新刊本を製作し売ることがあった。
露天商、行商、荒物屋(家庭用雑貨)などからも全国に書籍が流通した。
江戸地本の老舗、鶴屋喜右衛門の仙鶴堂と蔦屋重三郎の耕書堂は寛政の改革以降、山東京伝や曲亭馬琴を作者として独占した。
江戸では日本橋、神田、馬喰町、浅草、深川、下谷、両国、芝神明前などに本屋が出店し、地本問屋、書物問屋半々で天保の改革までに50軒以上はあった。江戸、大坂、京都が三大書籍流通ルートであったが、名古屋をはじめとする各地においても多くの書店が営業していた。
また「田舎版」と呼ばれる三都および名古屋以外で製版刊行された書籍も存在した。
本屋の間では早くから同業者が集まって本屋仲間という仲間(組合)が作られた。
これに加入しないと書籍を販売することができなかった。
本屋仲間は享保7年(1722年)に江戸で幕府より公認されたが(大坂では翌年享保8年)、これら仲間は海賊版の横行や風紀上の問題が起こらぬようにせよとたびたび取締りを受け、出版される書籍や浮世絵・芝居絵に対しては、問屋仲間のあいだで行事(当番制)の検閲が義務付けられていた。
しかし本屋仲間は天保12年(1841年)、株仲間(同業者組合)の買い占めなどで物価が高騰し風紀上問題ありとして、ほかの問屋仲間とともに解散令が出て一旦は廃止されたが、嘉永4年(1851年)再結成された時には新規参入で本屋仲間の数が125軒まで増えた。
(Wikipedia)
平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)
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江戸時代の版元などについて 4-2
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