信楽 2008’夏
先日、こどもたちと信楽(滋賀県)に行く。
夫は家で留守番。
ゆっくりと本を読みたい様子。
馬鹿だな・・・。
美味い物にありつけるというのに・・・。
信楽につきあわされたこどもたちも、陶器の窯元は案外好きらしい。
以前にも三人で備前の窯元に行った事があるが、息子などは、再びゆっくりと備前には泊まりがけで訪れたいという。
窯元のあるひなびた里山というのは、海のある田舎町と同じくらいに惹かれるのは、なぜだろうか・・・。
重ねて、陶芸家というのは 能面師と同じくらいに 興味をそそるのは、なぜだろうか・・・。
きっと立原正秋などの大衆小説のせいではないかと思う・・・。何につけても、この私は単純である。
陶芸家の話は、結構面白いことが多い。
また陶器と磁器では、ひねる人間の性格までもが違うような錯覚に陥る。
今回信楽で話した信楽陶舗の親父さんは紳士的で小粋であった。
茶碗の馴染み方や品、わびさびに至までの小話を、嫌み無く話し込んで下さった。
結構納得もでき、崇高なる職人の心意気。
信楽陶舗には、陶芸家の憩いの場といった感じで、小さな店に使い心地の良さそうな、手頃な品の良い器がこじんまりと並べられていた。
どちらかというと陶芸家のアンテナショップのような役割も果たしているのでは無いだろうかとも思われる。
器は使ってなんぼ!の基本を凝縮したような店。それでいて陶芸家の腕の見せどころといった物を感じさせる作品が並べられていた。
信楽陶舗は、一見 個展の会場のようで、一般客にとっては 若干入りにくい空気が伝わる。他の開放的なドアの大がかりな店に比べ、土産物店といった色は薄い。
高いかなとも思ったが、案外私でも買える手頃さだ。
店に入ると使い勝手の良さそうな大きめの机。
そして小さな店内のぐるりの壁面に、作品棚がある。
しかし驚くことに、大きな机のすぐ前、つまり作品棚の前には、三人掛けの座り心地の良さそうなソファーが置かれていた。
たまたまソファーの奥の棚に欲しい物があったので、手に取りにくいこと、極まりなし。
こういった客の不自由さは、私は好きだな!
ソファーには当然のように、陶芸家が一人。
店主と陶芸家は陶芸について、熱く芸術論を話し込んでいる。
その空間は懐かしくも感じ、また心地も良い。
私たちは冷たい梅じそジュースを頂きながら、時々二人の芸術論に耳を傾け、或いは店主の作品の接待の小話を聞き、ゆったりとした時の流れの中で、欲しい物を選ぶことができた。
私はこの店では、‘焼き〆の抹茶茶碗’を購入。
いい物を選ぶことができたと、満足している。
信楽では一水庵という アマゴやイワナや黒部和牛や陶板焼きなどの有名な店。私たちは、肉や寿司、塩焼きや天ぷら、イワナ酒などを適当に注文して、楽しい昼を過ごした。
この店の器は、ここの店主の陶芸家が総て焼いた物だという。
使い勝手の良い‘おてしょう’などに魅力を感じ、二階に展示されている作品を見せていただくことにした。
だが期待に反した悲しい結果。総ての作品が強い自己主張を放ち、購入後もとうてい自分の器としては馴染みにくいであろうと思い、購入は思いとどまる。
話は飛ぶが、お食事処の一水庵の陶芸家の親父さんも 話好きらしい。
陶芸を語り出すと後には引けぬといった職人堅気な気質が心地良くも感じ、また、或意味 粘着質傾向にも感じた。
同じように陶芸を語っている信楽陶舗の店主は、着物の似合いそうな紳士的な男性に感じたのは、どうしてだろうか・・・。
おそらくはこうだ。
一水庵の親父さんの言うことも正論ではあるのだが、陶芸家としての作品に対する逃げが、私には一部分納得できなかったためではないだろうか。
また器屋になりきれない芸術家を表向きに出した感性が、私には受け入れることができなかったといってもよい。
芸術作品としても、普段使いの器としても、どちらも中途半端に感じた。
例えば、油絵の場合、全くデッサン力が無い、或いはデッサンを無視して、『面白さ』だけを追求した場合はどうだろうか。その絵は表面的で、中身のない物ともいえる。
デッサン力を付けた上で絵を崩すといった作品の場合、私たちは強く感銘を受けるのでは無いだろうか・・・。
一水庵の陶芸作家は、
「二度と同じ色はでませんね。」
これには、大いに納得。
「二度と同じ形もできませんね。」
或意味、納得。
「歪の美しさですはね・・・。」
・・・これを職人自身が語ると、陳腐に感じるのは、私だけであろうか。
『そういった美意識は、本来受け手が独自に感じる物ではないか。』
といった、ちょっとした腹立ちに近い感覚が両腕皮膚表面に伝わったことを覚えている。
『ほほう・・・。
歪の美!、とくるか。どこぞの三文小説でよく出てくる言葉だな。』
日本人は兎角、この歪の美に弱い。
だが、日本でいう歪の美は 店主の作るそれとは違う。
頭から意図的に単なる歪に作り、
「どうだ!これが、歪の美しさだ。」
といわれても、私は首をひねりたくなる。
本来、歪の美には品位と和心が備わっているべきだと私は考える。
まして、どこぞの悪徳商法のように、値段を引き上げておいて、全品半額にしますといった商法は、陶芸家としてあるまじき事だと考える。
欲しければ、自分の納得する高額でも 或いは一円でも買うだろうが、初めから壁にべたべたと半額を貼る神経は、職人として許し難い。
また客を小馬鹿にした感覚だと感じるのである。
一水庵の店主に告ぐ。
半額商法は品位を下げる。
私たちが信楽に行った日は、たまたま盆休みの店及び窯元が多かったのは残念である。
信楽では商売に流れた多くの店を見た。
そんな中で以前に行った 備前の店と同じ空気の 信楽陶舗を見つけられたことは幸運であった。
この店は、高額過ぎず 使い勝手の良い器をお求めの場合は、一見の価値がある。
作家が一つ一つ丁寧に、近い手を感じながら作ったぬくもりが感じられる。
何よりも、焼き物の里に行ったという実感を味あわせてくれる店だったのが、ありがたい。
信楽では、サイクリングで町を走り回り、童心に返って三人並んで土をひねった。
土は適度に冷たく、人間内部の汚れた部分を熱といっしょにぬぐい去って放出させてくれるような心地よさであった。
この感覚は見事にリラックスを招く。
できばいはどうであろうと、ひねっているその瞬間が、無心であった。
一ヶ月ほど後には、焼き上げて下さった三つの器が届けられる事であろう。
こちらは見たいような、見たくないような・・・。
あまりありがたくない結果ではあるが、三人の夏の思い出の一つとして、ひねった残骸を食卓でどんどんと使おうと思う。