平成25年1月26日
今日は,実父の命日。
朝,母と娘と一緒に墓参りも済ませてきた。
4年前のこの日。
職場の会議中,妹からの電話を受けた。
【じいちゃんの様態が・・・・・】って。
それだけで,父がどういう状態にあるかは,ある程度は想像がついた。
実家に寄り母を乗せ,高速道路をかっ飛ばして,父のいる病室へ駆け込んだ。
酸素マスクをした状態の父が,横たわっているだけで,呼びかけにも何の反応も示してはくれなかった・・・
平成21年1月26日 午後5時44分
父は,眠るように天国に旅立って行ってしまった。
お前たちには,苦しむ姿は見せたくない!
父の生前の願いが叶った形で,旅立っていったわけだ。
父は,5年前の暮れから原因不明の高熱が続いた。
近所の病院で受診するも,【風邪でしょう】という診断。
それがあまりにも長く続くので,入院検査という形をとった。
胃も心臓も腸も悪いところはなかった。
怠いことと,貧血が強いということだった。
血液検査の結果から大きな病院を紹介され,転院したのは平成20年2月8日。
その日のうちに,父は余命宣告を受けることになる。
【数週間から数か月】
血液内科を紹介され,無菌室入りしたことで,ある程度の覚悟は出来ていた。
それでも,実際に我が父のこととなると,すぐには受け入れられない状態だった。
急性骨髄性白血病
その日から抗ガン剤投与開始。
39度以上の熱が何日も続き,何度か生死の境を彷徨っていた。
それでも,春先には退院し自宅で療養出来るようにもなった。
4月下旬に再度の抗ガン剤投与のために再入院。
そのたびに,血圧が下がったとか,肺炎を起こしたとか・・・
妹から連絡をもらうたびに,ドキドキして病院へ向かった。
でも,そのたびに父は持ち直し,我々家族に安心と希望を与えてくれた。
夏から初冬にかけては,どこにそのような病気があるのだろうか,と思えるほど,元気に過ごせていた。
大好きな盆栽の手入れをしたり,水田の様子を見に行ったり,家族と旅行に出かけたり・・・
しかし,さすがの父も病気には勝てなかった。
最後の入院の時,主治医がわだじゅんに言ったのは
【余命1~2週間】だった。
父の最期が迫っていることは,父の態度からは微塵も感じなかった。
相撲を見て,看護師さんの嫁に行く心配をし,出された食事もほとんど食べていたのに。
入院15日目。
【お父さんがいなくなったら,封筒を開けること】
生前,父は,具合が悪くなるたびにわだじゅんにそう言っていた。
父が亡くなって実家に戻ってから,その封を開けると・・・
我々,のこされた家族があたふたするのをよんでいたのか,お知らせ先や焼香順,お布施のことなど事細かに記されていた。
しょっちゅう喧嘩していた母への感謝の手紙もあった。
厳しかったが,自慢の父でもあった。
病気が分かるほんとに2か月ほど前までは会社勤めをし,休みの日には,田んぼ仕事をやっていた。いつも仕事をしている父だった。
孫たちなんてあっという間に大きくなるんだから・・・って,娘たちの車がいつ入っても大丈夫なように,実家の空き地を整備してくれていた。
葬儀が終わるまでは,気が張って涙もこぼれず,寂しいなんていっていられない状態だった。しかし,親戚が帰り父が本当にこの世の中からいなくなってしまったことを思うと,涙がこぼれ落ちた。
4年も過ぎるのに,父のことを思うと涙が止まらない。
今日は,妹たち家族も来て,仏壇に手を合わせてくれた。
父の妹夫婦も命日を覚えてくれたようで,わざわざお墓参りを済ませて実家に寄ってくれた。
今日は,父を思い出す一日となった。
もし,仮に父が生きていてくれたら,私の病気に対して何て言ってくれただろう。
そろそろ,夢の中に出てきて欲しいとねがっているわだじゅんである。
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今日は,実父の命日。
朝,母と娘と一緒に墓参りも済ませてきた。
4年前のこの日。
職場の会議中,妹からの電話を受けた。
【じいちゃんの様態が・・・・・】って。
それだけで,父がどういう状態にあるかは,ある程度は想像がついた。
実家に寄り母を乗せ,高速道路をかっ飛ばして,父のいる病室へ駆け込んだ。
酸素マスクをした状態の父が,横たわっているだけで,呼びかけにも何の反応も示してはくれなかった・・・
平成21年1月26日 午後5時44分
父は,眠るように天国に旅立って行ってしまった。
お前たちには,苦しむ姿は見せたくない!
父の生前の願いが叶った形で,旅立っていったわけだ。
父は,5年前の暮れから原因不明の高熱が続いた。
近所の病院で受診するも,【風邪でしょう】という診断。
それがあまりにも長く続くので,入院検査という形をとった。
胃も心臓も腸も悪いところはなかった。
怠いことと,貧血が強いということだった。
血液検査の結果から大きな病院を紹介され,転院したのは平成20年2月8日。
その日のうちに,父は余命宣告を受けることになる。
【数週間から数か月】
血液内科を紹介され,無菌室入りしたことで,ある程度の覚悟は出来ていた。
それでも,実際に我が父のこととなると,すぐには受け入れられない状態だった。
急性骨髄性白血病
その日から抗ガン剤投与開始。
39度以上の熱が何日も続き,何度か生死の境を彷徨っていた。
それでも,春先には退院し自宅で療養出来るようにもなった。
4月下旬に再度の抗ガン剤投与のために再入院。
そのたびに,血圧が下がったとか,肺炎を起こしたとか・・・
妹から連絡をもらうたびに,ドキドキして病院へ向かった。
でも,そのたびに父は持ち直し,我々家族に安心と希望を与えてくれた。
夏から初冬にかけては,どこにそのような病気があるのだろうか,と思えるほど,元気に過ごせていた。
大好きな盆栽の手入れをしたり,水田の様子を見に行ったり,家族と旅行に出かけたり・・・
しかし,さすがの父も病気には勝てなかった。
最後の入院の時,主治医がわだじゅんに言ったのは
【余命1~2週間】だった。
父の最期が迫っていることは,父の態度からは微塵も感じなかった。
相撲を見て,看護師さんの嫁に行く心配をし,出された食事もほとんど食べていたのに。
入院15日目。
【お父さんがいなくなったら,封筒を開けること】
生前,父は,具合が悪くなるたびにわだじゅんにそう言っていた。
父が亡くなって実家に戻ってから,その封を開けると・・・
我々,のこされた家族があたふたするのをよんでいたのか,お知らせ先や焼香順,お布施のことなど事細かに記されていた。
しょっちゅう喧嘩していた母への感謝の手紙もあった。
厳しかったが,自慢の父でもあった。
病気が分かるほんとに2か月ほど前までは会社勤めをし,休みの日には,田んぼ仕事をやっていた。いつも仕事をしている父だった。
孫たちなんてあっという間に大きくなるんだから・・・って,娘たちの車がいつ入っても大丈夫なように,実家の空き地を整備してくれていた。
葬儀が終わるまでは,気が張って涙もこぼれず,寂しいなんていっていられない状態だった。しかし,親戚が帰り父が本当にこの世の中からいなくなってしまったことを思うと,涙がこぼれ落ちた。
4年も過ぎるのに,父のことを思うと涙が止まらない。
今日は,妹たち家族も来て,仏壇に手を合わせてくれた。
父の妹夫婦も命日を覚えてくれたようで,わざわざお墓参りを済ませて実家に寄ってくれた。
今日は,父を思い出す一日となった。
もし,仮に父が生きていてくれたら,私の病気に対して何て言ってくれただろう。
そろそろ,夢の中に出てきて欲しいとねがっているわだじゅんである。
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