越後蒲原 ドス蒲原で 雨が三年 旱りが四年
出入り七年 困窮となりて 新発田様には御上納がならぬ
田地売ろかや 子供を売ろか 田地は小作で 手がつけられぬ
あねはジャンカで 金にはならぬ
妹売ろうと相談きまる 妾しや上州に 行てくるほどに
さらばさらばよ お父さんさらば
さらばさらばよ お母さんさらば
またもさらばよ 皆さんさらば
越後女衒(ぜげん)に お手ヽをひかれ 三国峠の あの山の中
雨はしょぼしょぼ 雄るん鳥は啼くし やっと着いたが 木崎の宿よ
木崎宿にて その名も高き 青木女郎やと いうその内で
五年五ヵ月 五五二十五両 永の年季を一枚紙に
封じられたは くやしはないが
知らぬ他国の ぺいぺい野郎に 二朱や五百で 抱き寝をされて
五尺からだの 真ん中ほどに 鍬も持たずに 掘られた くやしいなあ
これが上州口説きの、原型のように思われる。いわゆる「蒲原口説き」で、
元禄のころから上州地方にも、次第に飯盛旅籠屋があらわれるようになると、
かような遊女は、近所近辺では雇い難い。そのため貧乏百姓の多かった、
越後方向の娘どもを買ったのであろう。
この早い時期のことはよくわからないが、
後年には「娘ぜげん」を頼っていたのでは間にあわず、飯盛旅籠の女主人なども
越後方面に娘狩りに行っている。
蒲原地方では出産のとき、「男出来たら踏んずぶせ、女が出来てら取り上げろ」と
初めから女は金になるとされていたようで、
妙齢になると売られてしまう、というのうは宿命であった。
飯盛旅籠屋に売られてきた娘たちが、身の不運を嘆いたのは当然で、
その不運を嘆いた口説きを、唄っていたがやがて上州東毛地区に
根づくことになる。
昔は小説物にしても唄にしても、お涙頂戴ものは、庶民に大変好まれたので、
情けない蒲原口説きは、一度に盛行して、どこの盆踊りでも唄われる様になる。
女衒(ぜげん)
[ 日本大百科全書(小学館) ]引用
芸妓(げいぎ)・娼妓(しょうぎ)周旋人の東日本での通称。身売り証文に請人(うけにん)
(保証人)として連判したので判人(はんにん)ともいう。「衒」は売るの意で、女衒は、
商売上女を見ることから女見(じょけん)の転訛(てんか)したものと考えられるが、確証はない。
元禄(げんろく)年間(1688~1704)から使われ始め大正時代に及んだ。
職業周旋人のうちでとくに女衒が区別されたのは、特殊な営業感覚を要することのほかに、
中世の人買い以来の誘拐、詐欺(さぎ)などの犯罪に結び付きやすく、周旋料のほかに水金(みずきん)
(就業までの滞在費など)や鞍替(くらが)え(就業先変更)による仲介料などで不当な利益をあげるのを例としたからである。
遊女屋と関係をもつのはもちろん、地方にも手先を置いて組織的に活動した。
つづく