アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の八

2013年08月25日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治の風貌と性格

 

 伝えられる 忠治についての「利喜松聴書」によると体重は、

二十三貫(約86㎏)もあり、身長は五尺五分(152㎝)位の

短身、いねばズンダリ型であった。但(ひげ)が濃く、胸毛なども

垂れるように伸びており、ある利喜松が抱かれて寝て、

胸毛を引っ張ったところ、「痛え、痛え」といったという。

眉は太く濃く、眼玉はギョロ。として大きく、色の白い

無口な男であったという。

 羽倉外記の「赤城録」には、「忠肥晢、言貌把稿、平生不殺虫蟻、

然忍於殺人、睚眦之怨、不報不已」と述べている。

忠治は肥ってして色白で、言葉はおだやかで、平生は虫や蟻も

殺さなかったが、人を殺すことには残忍性をもっており、

一たん、これとにらんだ怨みは報復しなければやまない執念を

もっていたという意味である。足利の有名な画家田崎草雲は、

唯一忠治の生前を実際に見ており、その時の印象を次ぎのように

書いている(原漢文)。

 実に神 出鬼没の侠夫なり。余甞て上毛に遊び、途に遇う。

方面修眉、気勢凛然、人をして寒ならずして慓せしむ、真に

一箇之侠漢なり、今此の伝(註、羽倉外記の赤城録)を読む、其の声と

容(かたち)さながら目前にあり、因ってその像を繡し以て巻端に

標すと云う。

     辛亥(慶応四年)仲冬      草雲田芸誌

 

とある。神出鬼没の行動の素早い男であって、顔は四角い顔を

しており、眉は長く、その気勢はピクリとしており、

人をして寒くないのに震え上がらせる。誠に一箇の侠漢である。

 

珍らしい忠治の人相書には、 上州の南毛地区、埼玉県よりの

多野郡新町や藤岡、吉井、富岡地方にも、伊勢崎の町にとどまって

指揮していた関東取締出没の富田錠之助と中山誠一郎から、

下仁田の名主に宛てて、国定忠治らの人相書が廻わされたらしく、

「群馬文化」昭和三十六年元号本多夏彦氏稿「反故の中の忠治」)に、

 国定村無宿忠次郎其外之もの共捕方手配レたし侯ニ付、品ニ寄其村方

罷越候儀も可有之渓間則人相書差遣候。右者御下知物ニ付、怪敷散見受候

ハバ、差押早々廻村先伊勢崎町江可披申越候。

 

 国定村無宿 忠次郎 寅三十才余

  一、中丈(註中位の丈け)、殊之外ふとり、顔丸ク鼻筋通り

色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく、其外常躰角力取体

    二相見候。

 赤堀村無宿  松吉 寅二十四五才

  一、此もの人相不相知候。    

 右之外四五人も同類可有之渓間、怪敷見受候ものは、右ニ不拘差押、

早々可披申越候。比書付迫付可彼相返候。以上

  寅十一月十一目

                関東取締出役

                    富田錠之前

                    中山誠一郎

 

という珍しいもので、忠治の人相が田崎草雲筆の像とよく似ていることが

わかり、常躰が角力取りのようであるという表現も適確である。

 

彼の肖像画は、足利藩の画家である田崎草雲の手になるもの。

茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

忠治は、嘉永2年7月21日夜に妾、お町宅で脳溢血を発症している

嘉永3824日(1850929日)には田部井村名主家において

関東取締出役によって捕縛されているので、この像画は、

嘉永四年(1857)冬と記載有、田崎草雲が実際に忠治を見たのは、

没年より算すると、3年前、前後と推測されるので、

               したがって、30代後半と思われる。

 なを、当時は原画を写した物多くあり、私自身その数の多さに驚く

下の画像二点は、写した物であるが、クリックしてご覧頂くと

目の表情と左足の指が違うのがお判りになると思います。

 

田崎草雲

 (18151898

 幕末から明治の南画家。名は芸(うん)。初め字(あざな)を草雲としたが、

32歳以後はこれを号とする。足利(あしかが)藩江戸藩邸に下級武士の

長男として生まれる。父から南画の手ほどきを受け、8歳のころ

谷文晁(たにぶんちょう)門下で姻戚(いんせき)にあたる金井烏洲

(かないうしゅう)につき、のち加藤梅翁のもとで和歌や四条派の画風を習得。

春木南溟(なんめい)にも学んだ。39歳のとき足利藩に絵師として仕えたが、

幕末には藩校の設立、また勤皇家として民兵誠心隊を組織するなど国事に奔走、

維新後は足利に住んで画業に専念し、第1回内国勧業博覧会ほかの展覧会に出品

して賞牌(しょうはい)を受け、1890年(明治23)には第1回帝室技芸員と

なっている。代表作に『秋山晩暉(しゅうざんばんき)図』などがある。

司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデルでもある。

幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や

柔術に巧みであったという。書画会においては、

己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名を

貰ったとされる。 郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三

「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、

横浜に遊んだときにボクシングを使う米軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を

倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における。

異種格闘技戦の第1号とされる。実に変化に富、充実した人生を全うしている。

現代の画家は、スポーツや肉体労働をすると、指先が固くなり

微妙な表現が出来なくなると言われているが、

田崎草雲に限り例外なのかも知れない。


 なを、下記の足利市のホームページも参考になります。

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/soun/soun-jinbutsu.html

                        つづく