アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の六

2013年08月22日 | 近世の歴史の裏側

忠治、伊三郎を闇討ち

  その年七月二日、世良田村長楽寺裏山に開かれた賭場に

伊三郎が、来ると知り忠治、文蔵ら十人は秘かに境町に来ると、

町の東はずれにある藤屋という吞屋に入り、

一人を伊三郎の賭場にやり、やがて夜になり藤屋で待っていた忠治らに、

遠見に出た子分が息せき切って走ってきた。

今、伊三郎が帰り支度しているという。

忠治、文蔵ら十人はそれっと言って藤屋を出る

夜に入って子分の一人をつれて島村の帰路についた。

丁度小雨が降り出したので、伊三郎は片手に傘、

片手に提灯を持って、境村(高岡村)原山と呼ぶ雑木林に差しかかった。

すると突然忠治、文蔵ら十人の待伏せに会い、

不意を襲われてここに絶命したのである。いかに腕力にすぐれたものでも、

夜間十人に不意を突かれては決してかなうものではない。

致命傷は肩先から背中かけて一尺七、八寸の疵であった。

文蔵は後ろから不意に一撃し、さらに忠治らによって

滅多打ちにされたのである。

伊三郎は四十四才であった。後ろからついてきた子分は、

テラ銭の入った銭箱をほうり出すと一散に逃げ帰った。

 伊三郎の遺骸は駈けつけた親類の松之助に引き取られたが、

それは九死に一生の様子で、直ちに療治しなければならないという理由であった。

境村の名主がお上の検死もうけずに遺体を引き渡した事は、

天保九年九月文蔵が召し取られてから再度お糾しがあった。

それは文蔵の罪が殺人か殺人未遂であったかを定めるためである。

親類に引き取られた伊三郎は、無宿者であったから村の立作に葬ることが

出来なかったので、兄貴分の牧西の兵馬が引きとって、

牧西の宝珠寺の平野家墓地に葬られ、

伊三郎の女房むめが、石塔を建てている。

そして明治十四年春、孫の丑松が居村立作の町田家墓地に改葬した。

碑面に蓮清浄花信士とあり、碑側には伊三郎が町田吉左衛門の

五代孫であることと、歿年享年が刻まれている。

 一説に伊三郎の賭場荒しをした忠治を子分たちが捕え、

簑巻にして利根に投げ込もうとしたのを客分でいた日光円蔵が

伊三郎に話して、若い忠治を助けたという話があるが、

これは真実ではないようである。

忠治には、単身賭場を荒すなどという度胸は無かったはずである。

伊三郎の話は地元にもほとんど伝えられておらないし、古文書類の資料もない。

しかし巷間伝えられるような、忠治に対する悪玉的人物では

決してなかった。

これは全くあべこべで、正義任侠道をあるいた伊三郎であり、

度胸がなく闇討ちばかりしていたのは無頼の忠治だったのである。

境町、長光寺に伊三郎を追悼した盤若経が納められており、

それに蓮清浄花信士の名がある。戒名に花という文字は博徒で

なければ決して用いなかった。

 伊三郎を殺害したことにより、忠治は八州役人の大手配を

うけることになった。

大谷光陰録に「忠治郎御尋に付御取締御出役三百余人人足、

仮令親類たり共隠し置候ハ、重科云々」とある。

通常やくざ者同志の出入に八州役人がこんな厳しい

詮議をすることはなかったが、

忠治一味が平常一般市民にしきりに暴行を働いたので、

その所為を非常に憎んだのである。


関東取締出役

 

関八州とは関東地方にあった八つの国を指します。

 

・武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県)

・相模国(神奈川県)

・上総国(千葉県中部)

・下総国(千葉県北部・埼玉県・東京都・茨城県)

・安房国(千葉県南端部)

・上野国(群馬県)

・下野国(栃木県)

・常陸国(茨城県)

 以上の八国です。

 

ちなみに関八州の役人は関東取締出役、いわゆる八州廻りと呼ばれた。

勘定奉行配下で代官所の吏員から任命(身分上は足軽格)され、

各国を巡回しては治安維持に従事した。(ただし水戸徳川家は御三家で、

                             水戸家領だけは例外)

また本来であれば下級武士には、

到底許されない駕籠を乗り回し、泣く子も黙ると恐れられた。

しかし、映画、ドラマのように、召捕りに行くことは殆ど無く、

刀を抜くこともなかったが、それでは、主役として絵にならないから

自ら先頭に立ち悪人と戦く場面となるが、

多くは宿場で指図を出す

忠治の大手配を行うに当たり木崎宿で滞在し全てを取り仕切った,

勿論、召捕った者は全て木崎宿へ差出された。

 

                      つづく