○八木節へ
何百年、哀調に冨んだ唄い方でうたわれた口説きは、
明治末年になって消えることになる。
それは下野の堀込源太という、口説さの名人によって唄い変えられたのである。
堀込源太、本名を渡辺源太郎「明治五年一月二九日生まれ」といい、
例幣使街道八木宿在の堀込村の生まれである。
若いころ四方へ日雇い稼ぎに出ていたが、明治三十年ごろ、
境町在中島の桶職だった柿沼庄平が、
商売でしきりに八木宿方面に出ていて源太を知り、
庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。
養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村に働いていたが、
それから十年ほど、源太の中島時代があったわけである、
源太は。一時馬方などやっていたといわれ 生来の唄好きで、
よく馬子唄などをうたっていが、
中島に来てからは、その唄好きによって当時、口説きの名人と言われた
池田高次郎の弟子になり、口説きを唄いだしたが、もって生まれた美声と、
抑揚に富んだ節調の上手は
抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、喚ばれて唄って歩いたが、
中島の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島の源太」
として大いに名を上げたのである。源太三〇歳から三五歳ごろで、
源太の口説きは大変な評判になった。
ところが源太は、間延びした口説きのうたい方を、自分で創意工夫して、
調子のよいうたい方に変えた、こそれは軽いリズムこ乗った調子のよいもので、
その調子のよさは一度に、聞くものを圧倒させたのである。
その軽い節調は、上州人特有の好奇心を見事にとらえて、
大いに評判になり「源太節」と呼ばれ盛行することになる。
しかし、源太節の初めは、囃子方がなかった。
源太と一緒にいた小林半七さんの話では、はじめはただ一人で、
囃子なしで唄ったのであるが、暫くたって中島の連中が工夫して、
樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、
源太節は一世を風靡することになる。
いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は
中島の連中がつくったわけである
続く
中島村
旧群馬県佐波郡剛志村大字中島
名が示すとおり昔は利根川と広瀬川の間にあった中の島で、
古くは朝日の里の一部で、小此木村に属していた。
天正九年小此木村から分れて中島村は独立し、
江戸時代のはじめ慶長六年に稲垣平左衛門の領地となり、
元和二年前橋酒井雅楽頭領、寛永十四年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、
寛文二年三月また前橋領、天和二年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、
明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年四月明治政府のもとに
伊勢崎藩となり、翌二年伊勢崎県の支配、同四年十月伊勢崎県を廃して
群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治九年また群馬県となった。
中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。
今の柿沼十二家だが、寛政六年に名主年番制を定めた。
村役人は名主が一人、組頭二人で、三人の村役人が、
その以後は一年交替で名主と組頭を勤めるわけである。
村役人源右衛門は柿沼了三家である。
天和二年のときの家数は四十二軒、人数は二百十七人で、
慶応元年には家数六十七軒、人数三百四十四人、昔から農業も盛んだったが、
舟頭稼業が多かった。また中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。
男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で
馬子唄をうたいながら馬を曳いたと古老が伝えている。
明治八年村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。
はじめ児童は六歳から十三歳までである。
明治十二年四月中島、小此木、境の聯合戸長役場となる。
そして二十二年四月の剛志村合併となり、昭和三十年境町と合併となる。
村に伝わる話によると、中島の村名は川の中の島という義ではなく、
南北朝時代に足利方面から落ちのびた豪族中島修理がはじめてここに土着し、
姓を柿沼と改め、本姓の中島を村名としたといわれる。
中島氏が足利の出自であることはよくわからないが、
修理の墓塔が残されていて延文の年号がある。
これも、八木節と足利のなにかの縁かもしれない
つづく