○刑の運用と実際について
普通、敲きの場合の敲き役と数え役、検分役人が立会うが、
敲き方にいろいろあって、無宿や博徒人などは十分に敲かれる。
百敲きでも、数役が九十九といい、つぎは百でおしまいであるが、
百度目を敲いても、数え役は九十九という、
したがったまた敲くが、また九十九である。悪業を尽したやくざ者で
あると、死ぬまで敲かれたが、見ている人には、その罪を重さがよく
わかったわけである。(その場合は、病死となる)
余談であるが、安政四年、下渕名村と花香塚村の水喧嘩があった。
旱り続きで、田水がなく早川を渕名で堰きとめでしまったからで、
下流の花香塚村が江戸に訴訟した。その結果天下の田畑用水は平等に
つかうべしとことになり、渕名村名主は重敲きに処せられたが、
奉行所の門前の敲き場で、数え役が一つといい、
つぎに五十、三度目は百であった。
つまり村の犠牲者だったので、三つ軽く敲かれただけであった。
百敲きにもいろいろあったわけである。
いままで前後を通じて、無宿者、博突打などの様子を示したが、
旧佐波郡境町周辺では、死罪などの極刑になったものはなかった。
召捕り、放免ばかりで、一部の入牢である。この地方の無宿者などの、
江戸送りの記録はあまりない。
小此木の無宿者が捕まり、佐渡送りの例があるが、この男は勤め方精出
したとされ、十年目に金十両を与えられて放免され、村に帰って百姓に
なっている。お上にはお情けというのがあった。
だが必ず、国定忠治一党は、召捕られるとたちまち死罪であった。
つづく