○江戸後期の刑罰について
○死 罪
殺人や十両以上の金を盗んだものは打首であるが、多くは犯行のあった所
で処刑するので、よく村の方に首切場とか首切地蔵などいうものがあり、
昔処刑のあった名残りをとどめている。境、八木沼などにある。首切場は
土を盛って少しの土座を築き、土足の前に穴を振る。土壇にはムシフを敷いて
罪人をここへ坐らせるが、罪人は後手に縛り、半紙二つ折にして眼隠しとし
藁で後に結ぶ。後手に縛った罪人を土壇場(の語源は此処からで昭和になるまで
一般庶民は使わなかった引用である)に坐らせると二人が後から押え、
首切役人が斬り落すと、後のが足を引っ張って流れ出る血を穴へ落し穴。
もし罪人が首をつぼめていると良く斬れないので、
このときはが足を引いて寝かせ、そこを斬ったのである。
○下手人
死罪に同じく斬首するが、この罪人は試し斬をしなかった。
下手人は盗みをしない殺人刑である。
○火 罪
放火犯人だけの刑で、太い柱に縛り付け、縛った繩の上に泥土を塗った。
その上にかまど造りといって罪人が見えなくなるまで薪と茅を積んで囲み、
火を付けるのである。黒焼になった死骸は三日二夜そのままにして吊した。
○傑(はりつけ)
傑はよく話に聞いて知っていると思うが、柱の上に大の字にし縛りつけ、
二人のが左右のわきの下から肩先へ槍で突きあげる。国定忠治は
十四本突かれて死んだというが、普通は槍の血を藁で拭いながら
二十本位突いたそうである。傑もそのままにして三日二夜吊した。
○獄 門
これは死罪の附加刑で、斬首した首を人通りのある場所に吊して。
境では慶応四年に吊し首の記録があるが、獄門台の足の高さは1.40メートル、
それに横に板を渡すから丁度大人の他の位置になる。釘を二本立てて首をこれに
据え、三日二夜吊すのである。三ツ本文蔵は江戸小塚原でこの刑に処せられた。
江戸から西で罪を犯した庶民は鈴ケ森に、江戸の東の者は小塚原で処刑された。
○遠 島
関東のものは伊豆七島へ流された。
○追 放
追放には軽中重と三種の仕方があり、追放される範囲が定められていた。
これは幕府の刑であるが、境町の私領村々にはこの記録がない。追放になると、
故郷や御構場所には決して入ることが出来ないが、ただ墓参だと故郷に来る
ことが出来たが、家の中にいても旅支度で笠を冠っていなければ墓参に
ならなかった。大学者寺門静軒は江戸繁昌記を著した為、江戸追放となり、
長い間伊与久、境、辺りにいて、妻沼村で没したが、とうとう、死ぬまで
江戸へ帰ることが出来なかった。
○敲(たたき)
ただ敲というのは五十打つことで、百打つのを重敲きというが、
奉行所の門前で、衆人の前で行いムシロの上に罪人の
着ている衣類を脱がせて敷き、裸の罪人を腹ばいさせ、手足に四人のが
乗って押えつける。これで、肩背尻を打ち、背中を避ける
箒尻は弓を半分にしたようなかたちで長さがが六〇センチほどで、
割竹二本を麻苧で包み、その上をコョリで巻いたもので、
巡りが、約九センチほどあった。
女や十五歳未満の子供には敲をしないが、そのかわり五十日か百日の
過怠牢舎というのがあった。
○押 込
十日以上百日以下で、自分の家に押込むわけである。
○呵責(しかり)
ただ叱りと急度叱りの二種あった。いまの戒告説論のようなもので、
叱りを受けると、確かに叱られましたという証文を差し出した。
○手鎖(てくさり)
手鎖は両手に鎖をかけることで、三十日、五十日、百日の三通りある。
自分の家に押込みとなり。名主が隔日(四、五)に見巡った。
○閉 戸
戸を閉して営業を停止する。二十日、三十日、百日の三種。
○過 料
罰金で銭三貫以上五貫文以下、銭十貫文または財産相応の場合もある。
過料銭が納めら ないときは手鎖りになった。そのほか女に科した奴とか、
いろいろな属刑があった。奴は女を髪を剃って丸功主にし、
入墨は盗人に料したもので手とか額に入墨した。欠所は財産を没収するもの、
あるいは手下というのがあり、大した罪のない無宿などは佐渡へ送られて、
佐渡金山の水替人足に流された、何百メートルの鉱底にたまる水を手繰りで
汲みあげたもので、一日中、陽の目も見ずに水桶を下から上へ担ぎ上げる
過酷な労働人足である。
次回は、実際の刑罰の執行方法について、面白いので説明をしたい。
つづく