アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の壱拾弐

2013年08月28日 | 近世の歴史の裏側

 

○江戸後期の刑罰について

 

○死 罪

 殺人や十両以上の金を盗んだものは打首であるが、多くは犯行のあった所

で処刑するので、よく村の方に首切場とか首切地蔵などいうものがあり、

昔処刑のあった名残りをとどめている。境、八木沼などにある。首切場は

土を盛って少しの土座を築き、土足の前に穴を振る。土壇にはムシフを敷いて

罪人をここへ坐らせるが、罪人は後手に縛り、半紙二つ折にして眼隠しとし

藁で後に結ぶ。後手に縛った罪人を土壇場(の語源は此処からで昭和になるまで

一般庶民は使わなかった引用である)に坐らせると二人が後から押え、

首切役人が斬り落すと、後のが足を引っ張って流れ出る血を穴へ落し穴。

もし罪人が首をつぼめていると良く斬れないので、

このときはが足を引いて寝かせ、そこを斬ったのである。

○下手人

 死罪に同じく斬首するが、この罪人は試し斬をしなかった。

下手人は盗みをしない殺人刑である。

○火 罪

 放火犯人だけの刑で、太い柱に縛り付け、縛った繩の上に泥土を塗った。

その上にかまど造りといって罪人が見えなくなるまで薪と茅を積んで囲み、

火を付けるのである。黒焼になった死骸は三日二夜そのままにして吊した。

○傑(はりつけ)

傑はよく話に聞いて知っていると思うが、柱の上に大の字にし縛りつけ、

二人のが左右のわきの下から肩先へ槍で突きあげる。国定忠治は

十四本突かれて死んだというが、普通は槍の血を藁で拭いながら

二十本位突いたそうである。傑もそのままにして三日二夜吊した。

○獄 門

 これは死罪の附加刑で、斬首した首を人通りのある場所に吊して。

境では慶応四年に吊し首の記録があるが、獄門台の足の高さは1.40メートル、

それに横に板を渡すから丁度大人の他の位置になる。釘を二本立てて首をこれに

据え、三日二夜吊すのである。三ツ本文蔵は江戸小塚原でこの刑に処せられた。

江戸から西で罪を犯した庶民は鈴ケ森に、江戸の東の者は小塚原で処刑された。

○遠 島

 関東のものは伊豆七島へ流された。

○追 放

 追放には軽中重と三種の仕方があり、追放される範囲が定められていた。

これは幕府の刑であるが、境町の私領村々にはこの記録がない。追放になると、

故郷や御構場所には決して入ることが出来ないが、ただ墓参だと故郷に来る

ことが出来たが、家の中にいても旅支度で笠を冠っていなければ墓参に

ならなかった。大学者寺門静軒は江戸繁昌記を著した為、江戸追放となり、

長い間伊与久、境、辺りにいて、妻沼村で没したが、とうとう、死ぬまで

江戸へ帰ることが出来なかった。


○敲(たたき)

ただ敲というのは五十打つことで、百打つのを重敲きというが、

奉行所の門前で、衆人の前で行いムシロの上に罪人の

着ている衣類を脱がせて敷き、裸の罪人を腹ばいさせ、手足に四人のが

乗って押えつける。これで、肩背尻を打ち、背中を避ける

箒尻は弓を半分にしたようなかたちで長さがが六〇センチほどで、

割竹二本を麻苧で包み、その上をコョリで巻いたもので、

巡りが、約九センチほどあった。


女や十五歳未満の子供には敲をしないが、そのかわり五十日か百日の

過怠牢舎というのがあった。

○押 込

  十日以上百日以下で、自分の家に押込むわけである。

○呵責(しかり)       

 ただ叱りと急度叱りの二種あった。いまの戒告説論のようなもので、

 叱りを受けると、確かに叱られましたという証文を差し出した。

 ○手鎖(てくさり)

 手鎖は両手に鎖をかけることで、三十日、五十日、百日の三通りある。

自分の家に押込みとなり。名主が隔日(四、五)に見巡った。

○閉 戸

 戸を閉して営業を停止する。二十日、三十日、百日の三種。

○過 料

 罰金で銭三貫以上五貫文以下、銭十貫文または財産相応の場合もある。

過料銭が納めら ないときは手鎖りになった。そのほか女に科した奴とか、

いろいろな属刑があった。奴は女を髪を剃って丸功主にし、

入墨は盗人に料したもので手とか額に入墨した。欠所は財産を没収するもの、

あるいは手下というのがあり、大した罪のない無宿などは佐渡へ送られて、

佐渡金山の水替人足に流された、何百メートルの鉱底にたまる水を手繰りで

汲みあげたもので、一日中、陽の目も見ずに水桶を下から上へ担ぎ上げる

過酷な労働人足である。

 

次回は、実際の刑罰の執行方法について、面白いので説明をしたい。

 

                        つづく

 


真説 国定忠治 其の壱拾壱

2013年08月28日 | 近世の歴史の裏側

 

○伊三郎の闇討ち、弐

 

大変な傷害事件であるから、境村名主が領主方に、この一件を報告した

書類が伝えられているが、これは忠治の行状を伝える数少ない

実在資料なので、つぎにあげておきたい。

 

    乍恐以始末書奉中上候

御領分上州新田郡境村名主源次郎奉中上候、当月二日夜、

当村地内ニ手負人相倒罷在、其段御訴奉中上候始末御尋二御座候、

此段当村宇高岡前と唱候山地、前々より酒井市郎右衛門様御知行所、

同郡高岡村与頭藤七所持ノ地所ニ御座候処、当三日ノ朝山主藤七儀地所

見廻り候処、立木生茂り候内ニ、手負人相倒居候旨、同人より

当村役人方注為知参り、驚人不取其堀江罷越、一同立会得と面躰見届ケ、

疵処相改候処、肩先より背注掛ケ壱尺七八寸程、腰の廻り二弐三寸程ノ

疵五ケ所程有之、何レ茂深手ニ而、子細相尋候得共更二請答無之、

九死一生ノ躰二有之、身元取調候処、前言藤七兼面見知り候ものに面、

山本大膳様御代宿所向州佐位郡島村伊三郎ノ由中ニ付、早速先方注為

知遣し候処、同人親類松之助、次郎八と寸輩 両人罷越候間、手負人

見分為致御検使可奉願上と中談候処、左候而ハ却而迷惑いたし候間、

巳後何様ノ儀出来いたし候共、当村江脚難儀掛ケ中間敷候間、

速而引渡呉候様中ニ付、無是非右次第一札取置

引渡遣し候儀ニ御座候処、其後風聞承り候得者、無程相果候建ニ有之、

然処当十三日ニ至り、関東御取締御出役様方より御使ノ由申、

木崎宿問屋軍蔵外弐人罷越中聞候者、右伊三郎殺害致候もの共者、

新田郡国定村無宿忠次郎、同郡三ツ木村無宿文蔵、外ニ同類八人程有之、

右ノもの共儀万一当村江立廻り候義も有之候ハヽ搦捕、御出没先江

御訴可申上、御出役様より当村江可中通皆被仰渡ノ趣ヲ以軍蔵外弐人

より達し有之候ニ付、則別紙写ノ通使中迄請書差出し、昼夜無油断心附

罷在候儀ニ御座候、昼夜無油断心附罷在候儀二御座候前書中上候通、

                少茂相違無御座候、以上、

    天保五午年七月十九日

                 御 領 分

                   新田郡境村

                        名主  源  次  郎

 

この書付によれば、伊三郎の重傷しているのを、翌日朝に地主が見付けたと

しているが、それは死体を引き渡してしまったからである。

忠治一党十人にめった切りにされて、九死一生はないわけで、お上も斬殺され

たのは間違いないと見たようで、この後天保九年、三ツ本文蔵が召捕られた時、

境村と高岡村名主に、再び伊三郎殺害の様子書を糾しているが、その時もこの

同文を差出している。殺人事件か、傷害事件であったかの分かれ目である。

役人の検死をうけないと、死体を動かすことは出来ない。そのため

伊三郎の死体を引き渡したとき、まだ生きているとして境村名主は、

後日の証拠のために伊三郎方から引取り証文を受けとっている。

 

    差出中引請一札之事

一、当二日夜伊三郎義、其御地内ニ而、相手何方之ものニ御座候哉、

手負に相成候処、疵口相改候得者、療治等差加へ申候ハヽ快気茂可有之

と存候ニ付、御村役人衆江此段御願中、同人身分之儀者親類方へ引請、

成丈療治仕度候、尤御村方ニ而者御検使願上度旨被仰聞候得共、

再応御願中上引請ニ相成候上者、巳来何様之御尋御座候共、親類引清之

もの共一同罷出中訳ケ仕、其御村方江御苦難相掛ケ中間敷候、

為後日親類一同引請一札差出申処而如件、

天保五午年七月三日             

               佐位郡島村

                    伊三郎親類  松 之 助 

                      同     次 郎 八 

 境  村

      御役人衆中

 

 

 この伊三郎殺害一件については、すぐさま関八州様が木崎宿に来て、

忠治一党の急手配状が出されており、つぎのような請書が伝えられる。

 

    差上申請書之事

 

  一、当七月二日夜村方地内ニ而、島村無宿伊三郎を及殺害迯去候、

                 上州新田郡国定村

                   無 宿   忠 次 郎

                 同州同郡三ツ木村

                   無 宿   文   蔵

                   外同類   八人程之内

  

 

右之もの当村方並最寄村方ニ立廻り候ハヽ召捕、御廻村先江可訴出旨

被仰渡之趣、御達し被下承知仕候、依而請書差上申候処相違無御座候、以上

   天保五午年七月

              林肥後守領分

                上州新田郡境村

                   百姓代   惣   助

                   与 頭   伴   吉

                   名 主   源 次 郎

 

     関東向御取締御出役

       吉 岡 左五郎 様

       河 野 啓 助 様

       太 田 平 助 様

       小 池 三 助 様

 

この手配書はわざわざ木崎宿の問屋軍蔵、名主与市右衛門、与頭孝兵衛の

三人が境村に持って来ている。

関八州様が忠治の行状に、常に注意していたことが知られ、

此の度は大手配に御座候とある。今日の特別指名手配である。

普通やくざ者同士の争いには、お上は殆ど手を出さない。

大前田や清水次郎長など、随分やくざ同士で喧嘩をしているが、

お上は決して手を出していないが、無宿者忠治一党にだけは、

断固たる処置を取っている事が判る。

 

                         つづく