アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

上州 八木節はいつ、何所から? 其の2

2013年08月12日 | 江戸から明治へ


 

 上州の口説き節が、越後から伝わったのは聞違いなく、明治初年、

前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き

風俗無之筈の処、近来越後辺より。。。。云々」とある。

ここにある近来は、このころ口説きが盛んになったことを言うのであろう。

決して近来でなく、元禄ごろからは行なわれていたと考えられ、

近来は一層盛んであった。

 また全国的にうたわれていた、阿波の鳴戸や鈴木主人、

白石口説きというような口説きもお涙ものであり、元禄前からうたわれていた

「八百屋お七」などもお涙物である。このような口説きや芝居などは、

当時の庶民の第一の楽しみで、年を経るとともに盛んになってくる。

 そしてだんだん年を経ると、新しい口説きが作られるようになる。その一番の

代表的なものは「国定忠次口説き」である。

これは嘉永三年に忠次がお仕置きになると、

すぐさま江戸で作られ刷り物にされて、上州方面に売りにきたのである。

その心覚えを。

 今度珍らし お仕置きばなし

  国は上州国定村よ 百姓忠兵衛の二男が忠次

 

    殿の御威光で 無宿となりて

    近所近辺 悪事をつくし

 

      聞くもおそろし 悪党でござる

 

   子分子方も そのかず知れず

 

     一の子分は 日光円蔵

 

     つづく子分は 三ツ本の文蔵  やんれい

 

このような刷り物が出回ることになる。口説きの一節ごとに「やんれい」という

文句が入る ので、口説きは「やんれい節」とも呼ばれた。

江戸後期になってからは、何か事件があると、

 たちまちこの口説きが作られ、売り出された.とくに飯盛女にはまリ込んでの

心中話しなどは 面白い題材で、高崎心中くどき、沼田心中口説きなどいろいろある。

さらに「上州村づくしやんれい」などというのもあるが、

こんなものは盆踊り用にはならなかったであろう.しかし国定忠次口説きは、

盛んにうたわれたようで、忠次お仕置きのあと、明治にいたるまで、

蒲原口 説きとともに、大いにうたわれたのである、とくに束毛地方の地元に

おいては、次第に蒲原口説きより、忠次口説きの方が多くうたわれるようになる.

むかし盆踊りというと、口説きの連中が四方から押しかけて、

自慢の咽喉を競ったものである、そこには一反流しなどという、

長い布地を竹竿につけた賞品があって、審査優等とされて

 この一反流しを持ち帰るのを争うのである。

いずれも聞の抜けた用い方の口説きであった。

この用い方は同じであったが、その名は異なっていて、木崎には木崎節、

境町では「赤わん節」と呼ばれ、玉村には「横音頭」などと呼ばれた、

いずれも同じ口説きの用い方であるが、赤わん節は、うたい出しが、

  赤い顔して 黄色い声で

  またも出ました 赤わんが野郎

  国はどこよと たずねたなればーー

 

 というたい出しにはじまるので、赤わん節とよばれた。

幕末から明治のころ、ここには池田高次郎という人がいて、口説きの名人といわれた。

そのため大勢の弟子がいて、つぎには「わたしや武士(たけし)の赤わんが弟子よ」と

いううたい出しになった。口説きには太鼓を立ててはやすが、

玉村は太鼓を横にして叩いたので、横樽音頭といわれた。

横樽というが、口説きにはかっては使われず、かならず太鼓である。

いずれにしてもうたい方は同じであった。

口説きは曲調をいうわけで、文句はどんなものでもよかったが、

口説きの唄い方の初めに必ず、

 

国はどこよと おたずねなれば

 国は上州 国定村よ

 と唄うと、チャンカポンのポンと、カネとタイコと笛の拍子が入る、

そしてつぎに前の一章の

  国は上州 国定村よ

    百姓忠蔵の 二男が忠次

 と唄うと、またチャンカポンという拍子が入る。したがって一段唄うのに

大変時聞かかる。しかも間の抜けた唄い方である。囃子方は笛、太鼓、鉦で、

うたう人は開いた扇で口元をおおい、頭をふりふり唄うわけである。


                               つづく

 武士(たけし)

 語源は

 旧群馬県佐波郡境町に、大字 下武士「しもだけし」上武士「かみだけし」の両方を

通称武士と呼んでいるが、戦国時代末期城山の城主根岸三河守が没落、

三河守の家来が土着帰農した

武士「ぶし」の集団土着により、それまでの竹石村を武士村と称するようになり

慶長のはじめ武士村を二つに分け武士「しもだけし」上武士「かみだけし」とした。

なを、武士「しもだけし」村社、三社神社の南側の一部を陣場と呼んでいるが

三社神社に祈願し、この調練の場を陣場と呼んだとされている。

これ以前に、平安末期に上野の守護だった、安藤藤九郎景盛がこの地で、武を練ったので、

この地を、武士(たけし)という地名が生まれたという説もある。

一部、郷土史家の方々が、江戸時代例幣使街道の柴宿から次の、

境宿の手前の広瀬川の渡しを「竹石の渡し」と読んでいて

その竹石が、訛って武士になったという説を唱えるがこれは明らかに

年代的に誤りであり、竹石の渡しと、武士は併存していたのである。

江戸時代の絵画に、竹石の渡しがあるが、この時すでに

武士「しもだけし」上武士「かみだけし」村は、古文書に記載が有るので

実在しており、「竹石の渡し」の竹石が、訛って武士になったという根拠は

覆ることになる。