アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の壱拾四

2013年08月30日 | 近世の歴史の裏側

 

○忠治逃亡の経路 其の壱

 

天保五年七月二日に、子分の三ツ本文蔵(大見山)の恥をそそぐと、

云う事で、伊三郎を尾島町北米岡の原田で殺したことは前に述べたが、

身辺の危険をさけるために信州に逃亡し、松本のばくちの親分、

勝太という者のところに隠れた。そのころ、信州中野地方(現在の

中野市一帯)にばくちがはやり、さかんに行なわれていたので、

忠治は三ツ木文蔵を連れては、しばしば賭場荒しをやっていたようで

ある。すでにこの時に、伊三郎殺しで兇状持ちになっていて、

追究されていたことは、「赤城録」にある、中野の偽役人一喝の

逸話によってもわかる。それは、ある時、中野のやくざが、捕手に

化けて十人あまり、逮捕に向かったが、忠治は早くもこの偽役人を

見破り、「この犬ども、糞でも喰らえ」と叫んで、二十人の中に躍り

込み、刀をふるって追い散らした事件を伝えている。これは、

忠治の身辺に逮捕の手がまわっていたことを物語っている。

この信州行きのコースは、おそらく室田から三ノ倉、権田を経て

萩生峠を越し、大戸を経由して須賀尾-狩宿―六里ケ原―車坂―小諸と

いうコースであったと思える。現在六里ケ原(浅間山山麓の北東部に

広がる大平原、六里ヶ原(標高1116m)は、あまりに広大なので六里

(約24km)有るのでこの名が付いたとされる)の大笹(嬬恋村)区域に、

天明三年に噴出した溶岩の巨大なのがいくつかあるが、そのなかに、

忠という墨書かあるものが二、三残っている。地元の人達は、この

符号は、国定忠治が、信州へ逃げる時にあとから来る子分のために

記した道しるべであったと伝えている。あるいはそれは真実でだと思う。

大戸には、関所があり、そこにはすでに手配の人相書が届いていた

はずであるが、これを破って(通行手形という通行証明書を持たずに、

抜け道を通って)信州へ落ちたと推定される。

忠治が信州へ往来するのに利用したと思われる間道が、いま一つあった

ようである。車坂(標高1975m)越えは寒くなると通行できないので、

鹿沢温泉の角間峠を越え、角間山(標高1980m)の中腹を通り、北信地方へ

抜けたと思われる。というのは、角間峠(標高1590m)の古道の途中に

「三望(さんぼう)ヶ池」というところがあり、その近くに自然の岩窟か

あり、忠治が赤城山から浅間山伝いにきてこの岩屋で一夜を明かし、

信州へいったという話を、鹿沢温泉紅葉館の主人が伝えている。

信州から来るときここで一夜泊まり、大戸へ出、大戸の宿を通ったと

いう。岩窟は畳四畳半ぐらいで、奥の方は八畳敷ある広さだという。

山の傾斜面にあるあつらえ向きの岩屋である。野沢温泉村の妾のところを

アジトとしたとすれば、この話も全くの作りごとでもなさそうである。


服装について、忠治は逃亡者であり、常に逃走を前提に着衣も

考慮していたと私は思う。したがって冬場は防寒を考慮して

通常の、三度笠と、旅合羽ではなく、

蓑笠に、旅笠も強風と原生林を逃亡する為、表面積の少ない

風の抵抗が少なく防雨、防寒になり防刃にもなる蝋塗の

下記の様な旅笠を着用したと考えている。

それに加えて、防寒に下記の着用も考えられる。

脇差も、逃亡する際邪魔にならぬ様また、不意打ちを常に念頭にいれて、

 

全長を短くするために鞘の先端まで、刃の先端まで収まる様にし

なるべく全長を短くし竹藪などで邪魔にならぬ様にし又、

刃背つまり、棟は武士の棟と比べ、厚く折れに強く重く敵に打撃与える

脇差にしてなをかつ、己の命を守る為に思案したと考えると

鞘の外側を金属で覆い咄嗟の場合に抜かなくても防具として

使用出来る様に、全長で2尺5寸程度に造り替えたと考える。

白鞘は、用心の為、懐に忍ばせていて長さは全長で尺5寸以下で、

道中では滑り止めの為、布に包み着衣内側の背中に収めていたと、

思うそれは、走ったりしゃがむ際に邪魔になり不便でからである。



                        つづく

羽倉簡堂

 

羽倉簡堂は各地で代官を勤めた役人で、晩年は学者として生きた。

忠治と直接会った事は全くないが、国定忠治の時代を生きた人で、

同僚には係わった知人を多く持ち、裁判記録を入手できる立場にありそして、

国定忠治とは全く立場を逆にする人物ですが、国定忠治を題材にした。

『赤城録』著者として国定忠治研究の資料となっています。

忠治が救民活動を行ったとする話はこの『赤城録』に掲載されています。

国定忠治はただのごろつきだったと主張する人達には全く都合の悪いこの記録について、

後世の贋作であるという声もありますが、羽倉簡堂でなければ書けなかったであろうと

思われる記述も多々あり、忠治没後書かれたとしても全体として参考になる資料で

あるというのが一般的な評価ですが、忠治の地元及びその周辺には、私がこの十数年

丹念に、調べたが、その様な忠治が救民活動を行ったとする話はありません。

郷土史家と称する方が、その様な事を述べておりますが、その根拠は全て
『赤城録』を、元に推測してある部分を誇張している様です。