国定忠治など、無宿者の背景には、この地方に経済基盤の発展があり
その中過程で、無宿者が生まれたので、市場の発展について述べておきたい。
六齋市場
まだ貨幣経済がなく商業活動未発達の江戸時代初期には、
この地方の人々は江戸に米売りに行った。馬に米二俵を積んでいったが、
その途中の板橋にはまだ米屋がなかったので、神田で売ったといい、
それは米二俵金二分であった。物資交流が不十分だったときである。
そのころ百姓の経済交流の場は六齋市場で、江戸時代にこの地方には、
伊勢崎位置、境町市、柴宿の煙草市、また一時立てられた百々市もあった。
六斎市にはまず市神である天王宮を建てるが、境町市立のときには天明、
いまの佐野の市場の天王宮の土をとりに行き、それを町の市場に埋めて
天王のお宮を建てたと記録にある。
現在の瑳珂比神社である。
正月の初市を「寄市」といって、伊勢崎は正月六日、境町は七日で、
いずれもこの日初市祭りがあった。十二月は伊勢崎は二十一日、
境町は二十二日が暮市といわれた。年中の市日には伊勢崎藩の役人が
市検断と称して出張した。
そこには農産物を売りにくる百姓と、商人、いわゆる昼間渡世と
いわれた人たちが寄り集ってきた。
はじめのころは町村に商店というものが無かったので、
売り買いはすべて六斎市日に行なわれた。
同時にこうして六齋市は、百姓の寄り集まりがあって、
一種の社交場的雰囲気もあって、百姓が人々に出会うのを楽しみにしていた。
江戸中期になり俳人栗庵日記に、
外出はほとんど六齋市日で、一日中市場をうろうろしている
様子を記録している。
そこには諸友との出会いがあったからで、
ただの経済交流だけではなく、これは社交場としての存在もあった。
六齋市立は領主役所と幕府へ願出でて、新規に立てるわけであるが、
これは既存の近くの市場に影響があって難しかった。連取村でも
六齋新市の企てがあって、たびたび領主役所に願い出ている。
連取村には江戸道が通じていたので、その道端に立てるはずであったが、
これはついに許可にならず、連取村六齋市は実現しなかった。
市場は町の大通りに開かれ、野菜物などの農産物の売手もあったが、
この地方の市場はほとんど糸絹商人の買手が主流であった。
この買手商人は場所の良し悪しによって成績が変ることから、
自然よい場所につこうとする。その場所割についてはどこの市場でも
出入りがしきりにあった。
それは地元商人と他所商人と呼ばれた人によって争われることが多い。
割合に地元商人が良い場所につきたがるからで、それでは遠くから
出張した他所商人が承知しなかったのである。例えば伊勢崎市も
境町市も大体同じような規模になったが、他所商人は七・八十人もあって、
地元商人数を上まわっていた。そのため他所商人を大事にして市場の
繁昌をはかったのである。
市場に集る糸絹商人からは、寛保年間まで茶代世話料として五十文を
取り立てたが、それは一人何疋を売り買いしてもよかった。
しかし寛保の大洪水から百姓が不景気になって、
それからは茶代を廃し、二十四文のわずかな世話料だけであった。
ところが宝暦九年になり、幕府は新規に市場口錢一疋につき五十文の
取り立てを触れた。これは大変な世話貨になるために、
上武両州の市場が猛烈な反対運動を起こしたのである。
世にこれを宝暦の絹騒動といい、あまりに反対が大きかったために
口錢銭取立はなくなった。
糸絹商人といわれたものは、市場だけで買い取るのが建前でとあったが、
時代とともに糸絹の生産が増大するようになると、
自然に商人たちは出買いというのをはじめるようになる。
市場の外での買収や村方を出廻って買い集めるのである。
このようなことが行なわれるようになると、
百姓が市場へ売りに末なくなる。市場が衰微しては大変として、
糸絹の出買いを厳重に禁止している。
伊勢崎風土記によれば、伊勢崎の六齋市は元亀年間から開かれたという。
一の日、伊勢崎市場 六の日の毎月六度立てられたので一・六の六斎市と
呼ばれた。伊勢崎には伊勢崎藩塁城に陣屋があったので、
城下町の市場として次第に栄えたようである。しかし新市が立てられたころは、
まだ戦国時代末期の様相にあったし、また地方産業も未発達であったから、
経済活動が活発に行なわれたであろうか。貨幣経済も不十分だったと
考えられる。次第にさかんになってくるのは後で、はじめ本町だけで
立てられていたのを、寛永二十年に本町と西町の二市に分かれたが、
それは六斎市の繁昌があったからである。その後万治二年に新町に分かれ、
伊勢崎は三市になっている。これは六斎市の盛んになったの事を
物語るものであろう。
六斎市取引の主流が糸絹にあったことは、すでに述べた通りであるが、
宝暦九年当時伊勢崎の有力な絹宿商人と呼ばれたのは十二人で、
これに付属する大勢の買い子があったのである。
この年の市場取引数をあげると、
一市ニ付 三・四月 絹 三十疋ほど
同 七・ハ・九月 同 五百疋ほど
同 十・十一月 同 五十疋ほど
同 六・七・八月 糸 百五十質匁ほど
同 九・十月 同 四十質匁ほど
というもので、とうじすこぶる高価な糸絹であったから、
一市の出来高は大変な金額であった。
この数字は年とともに養蚕が大きくなり、糸絹産業がさかんになると、
この地方の大きな資本力として、町村方経済を大いにゆたかにしたのである。
江戸時代中期までは主として絹糸の売買で、大体は江戸に出されたが、
とくに良質のものは登せ糸といわれて京都に輸出された。
太織縞は江戸で大変評判が良かったので、生産が需要に間に合わず、
江戸駿河町の越後屋をはじめとして、諸方からの買い人が集った。
こうして文化、文致年間、伊勢崎六齋市は最盛の時期にあり、
さらに幕末期の黄金時代を迎えた。
六斎市場にも香具師の縄張りというのがあったらしく、
天保六年に下値木村の百姓四人が野葉物を六斎市場に売りに出たところ、
香具師仲間に止められてしまい、百姓がその不当を幕府奉行所へ訴え出ている。
百姓は青物類を売りにゆくのは勝手次第といい、香具師仲間は市場の
取締りにならないとして、売り場を止めている。このような野菜青物類を
売りに出るのは、伊勢崎市にかぎらず、どこの六斎市にもあったと思われるが、
いずれにしても六斎市にかかわっていたことである。
このようなかかわりは境町市場にもあった。
栗庵似鳩は(りつあん・じきゅう=姓は玉置)大阪生まれの俳人
「池澄子をたずぬるに、主人は農に出しとてあらず、涼をとらんと坐に上りて」
などと日記している。天明年間からこの師弟は往来して俳諧にはげんだのである。
夕 暮 も あ や な き 梅 の 匂 ひ か な
池 澄
草 刈 り の 戻 る 道 辺 や 露 し ぐ る
池 澄
栗庵日記の正月に「保泉池澄子人来、年玉鳥目拾疋給わる、
折ふし風荒吹き出ぬ」というような記があり、その後に
元 日 や 開 き そ め た る 福 寿 草
池 澄
天保四年十一月九日、七十一歳で世を去った。
その墓碑銘は同村の鈴木広川が撰しているが、
鈴木広川の門弟には、金井烏洲などがいた。
つづく