それは明始末年ごろからであった。この堀込村の源太節は隣りが、
八木宿だったので、大正三年日本蓄音機商会でレコーディングされる際
「八木節」と名称を変えて盛行した。
源太は堀込村の人で、世に堀込源太と呼ばれたが、
本姓は渡辺である。
源太一座はしきりに境町方面に興行にきていた。
百姓家をかりて簡単な寸劇と、八木節をうたい歩いたが、
木戸銭は二銭、三銭だったといわれ、
節まわしの良さで評判はよかった。
そのため何とか源太一座はやってゆけたらしい。
もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行して
あるいた、桜井さんという老婆の話には、とても男前のいい芸人肌だったので、
どこへ行っても女がつきまとったそうである。
やがてこの一座は日本中の評判になって、
八木節は全国的に広まることになる。
堀込源太のあと、二代目、三代目の源太があらわれて、
いわゆる芸能プロとして、興行したわけである。
八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村である。
その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで十年間ほどうたわれた
「源太節」がもとになったわけで八木節は上州に生まれたのであるが、
八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。
その元流は口説き節で、元禄のころからの遺物である。
源太一座は戦争中まであったが、源太の死「昭和18年12月8日死去。72歳」に
よって解散したが、その間大正五年には東京浅草に進出し、
「国定忠治」などの物語を節にのせて威勢よく唄う。
これが八木節として全国にひろまった。
そして戦後になり、源太とともに歩いていた中島村の連中も、
みな村に帰ってきたが、いずれも笛吹きの名人などである。
いずれも明治末年ごろから、源太とともにしきりに口説きを唄い歩いた
人たちで、口説きから八木節への移り変わりをよく知る人だったので、
この人たちから八木節の生まれを尋ねたわけで、
天下に広く伝えられた八木節が、
中島村に発祥したことを聞いたのである。
そしてその母体は口説きだったのである。
今日、八木節というと、ただでかい声をあげて威勢よくうたうのが多い。
バンセイ(蛮声)とでもいうのであろうが、源太の直弟子に、
島村の橋本悦さんが、昭和40年代まで健在で、この橋本さんの八本節は、
どなり立てるものではなく、
静かに、しかも非常に抑揚のある曲調で、落ちついて間くと、
本当にほれぼれとする感じで、これも芸だなという思いがする。
これが源大の本当の唄い方だったわけである。
つづく
ここで、逸話がある、旧佐波郡境町島村字北向の橋本悦さんのご先祖は、
元は越後生まれの方で大工として島村に移り住んだ、悦さんには、
お子さんが10人ほどおられて、その御一人の息子さんが私の高校時代の
同窓生で、その彼から聞いた話では、一時 源太師匠が弟子の橋本悦さんの
敷地に内に住んでおられて、
本妻さんと、木崎の飯盛女と同居していたが、何時も内輪喧嘩が絶えず、
橋本悦さんが、困り果てたとのことでした。
なを、橋本悦さんは、昭和30年代にNHKのど自慢に出場されたが、
何時も、鐘が 二つだったが、島村舟唄の最後の伝承者であったことは、
知られていない、その舟唄がどんな唄かも今は判らないので残念です。
なを、旧佐波郡境町中島の柿沼さんは、NHKのど自慢で優勝されている。
橋本悦さんは、現在は、伊勢崎市境島村通称北向で、静かに眠られ
今日は、お盆で現在の当主の御孫さんお宅で、八木節や島村舟唄を
当時を偲んで口ずさんで 居られる事と思います。