アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の壱拾

2013年08月27日 | 近世の歴史の裏側

 


関東取締出役の新設


話は前後するが、盗難があったとき盗賊の逮捕に向うのは近所の

百姓で、それを指揮するのは名主である。五人組帖前言にもある

通り、盗難火災の場合は村中が出合わなくてはならなかった。

当時は広範な自治制度で、名主が警察署長の位置にあった。

名主の指揮によって小前百姓が総出で犯人を追いかけても、

犯人が隣村に逃げ込かともうこちらの名主にはどうにも手が出せない。

例えば、境から小路一つ隔てた東町に逃げこむと、当時東町は

新田郡境村で、郡が違う上に、境村は千葉貝淵林肥後守の

領分であるから、伊勢綺領の境町の方では手示出ないわけである。

 こういうことは同じ世良田村でもこの例がある。世良田は

大部分天領代官支配御料所であるが、長楽寺門前が長楽寺領で

寺社奉行の支配御神領と呼んだ地であった。

この一角は今も舛形と呼んで区別しているが、文化八年に

御料所の地で無宿ものが博奕をやろうとしたが、御法度ゆえに

源之丞という百姓が差し止めてしまった。これを遺恨に思った

無宿は翌日原之丞を斬殺すといって乗り込んだが、近所の者に

騒がれ、村中出合って無宿ものを追いかけたが、逃げ場を失った

無宿は御神領の舛形に逃げ込んだ。 さあ困ったのは村中の捕方

たちで、殺人未遂犯人を眼の前にして踏み込むことが出来ない。

止むなく御料所の名主が御神領の名主へ掛け合い、双方の名主が

立合って無宿が逃げ込んだ藤吉の家を探したがすでに逃亡した跡、

このように支配違いだと、隣家でも踏み込んで犯人を捕らえることが

出来なかったし、みすみす犯人逮捕の機を逸してしまうわけである。

とくに文化、文政ごろから無宿ものが横行して博奕が一層盛んになり、

村方の風儀が宜しくない。また治安維持の上からも

不合理であるというので、文化二年、石川左近将監が勘定奉行の時に、

関東の代官四人に命じて手付手代二人ずつを出させ新設したのが、

これを関東取締出役であるが陣容は、二人一組にして関八州を

巡行させた。つまり四組の取締出没が一年中廻村し、天領、私領、

寺社領の区別なく踏み込んで宜しいということで無宿どもの召捕を

行った、俗にこれを八州様と呼んだ。

先に記載した通り、八州様の身分上は足軽格という比較的下層な

身分であるにも関わらずかなりな権勢を誇っていたようで、

本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗りを許されていた。

 

八州様の手付というのは侍であるが、手代は百姓町人の気の利いたのを

代官が召抱えたもので、手付と同じ格であり、大小を差す事が出来た。。

島村伊三郎殺害一件に出てくる大田平助は代官山本大信の手付で、

吉田左五郎は代官山田茂左衛門の手代である。

手付手代の二人一組の出役には小者二人が付くが、巡村しているうちに

目明しとか岡っ引というのがついてくる。お上の威光を笠に着た仕末の

悪いい奴だが、役人にすれば情報が得られて調法であるから連れて歩く。

それに題材するときには先々へ道案内を出せという通知があって、

目はしの利く村役人などが一緒に歩いた。それにいいかげんな輩が

勝手にくっついて歩いたもので、出没の一行はたちまち十散人の同勢に

なったものである。 板割の浅に殺された三室の勘助も博徒の親分で

あったが、兇状をもたなかったので十手をもらった岡っ引で、八州様の

あとをくっついて歩いた手合いである。岡っ引とか目明しとも呼んだが、

十手をあずかった、岡っ引ともなれば大変威張れたもので、大勢の子分が

いるから、隅から隅まで情報が得られるので、八州様には調法だった

訳だ。小説にある銭形平沢は岡っ引、昔むっつり右門といったのは八丁堀

の同心で、足軽級の侍である。同心の上に与力という捕方役人がいたが、

与力も同心も実際の捕物に自分で手を出すことは絶対にない。

犯人を向うに廻してヤアヤアやっているのは、三室の勘助など岡っ引以下

の番太や百姓などである。 八州様の前に立って歩いた道案内は、

はじめ村役人などの実直なものが出たが、幕末にはいい加減な手合いが

自分から道案内を買って出るようになった。この連中はお上の威光を

ふり題すので、だんだん弊害をともなうようになったので、文久三年に、

八州様から厳重な達しがあった。つまり、各村々で風俗の宜しくないもの

を出すが、これからは名目だけの道家内で、手代りの者を出しては、

いけないということであった。

関東取締出役は、当初四組であったが後には八組になり、役所は江戸に、

あった。 かねて指名手配中の国定忠治は名題の悪党で境町附近にも

毎日のように出没したが、八州様が召捕りに向ってもなかなか捕らな

かった。それは役人が動くと直ちに情報が向うに入ってしまうからで、

当時はこれを「風」といった。

いつも忠治は風をくらって逃げてしまうわけである。

そして忠治が捕ったのは風をくらっても逃げることが出来ない中気に

なって、半身不随なり動けなくなってからである。

八州様が、天保水滸伝で有名な勢力佐肪(本名)別名は、勢力富五郎

【せいりき・とみごろう】をつぶすには十六年かかったといわれ、其の頃の

暴力団もなかなか手に負えなかった。

天保八年は三ツ木の文蔵が召捕られた年である。文蔵が捕まったのは

世良田であるが、このとき八州さまは木崎宿にいて差図し、

とうとう世良田に来なかった。

文蔵召捕は世良田の名主に命令され、名主は村中の番太や百姓に

八坂の鐘を、打ったら出合うようにいい付けた。さて文蔵が現われ、

この謀りごとに感づいて逃げ出すとあわてて半鐘を鳴らし、百姓達は

寄ってたかってハシゴ捕りに押え、木崎の八州さまへ差し出した。

テレビや映画にあるように、侍分の八州様が自分で手を出す様な事は、

殆どなかったのである。なお伊勢崎領分では文政年間から、領内の百姓を

選んで御領分取締役を設け、無宿の取締りを行った。

                       つづく