やくざの掟
仁義の切り方によって
取り次ぎの子分に通じて
入口の土間の隅に、両手の指先を地面につけてひかえる。
「お控えなしておくんなんし」と、
口をきると、受け入れる方でも、同じ言葉を繰り返します。
すると 「つきましては、懐中ご免こうむります」
「どうぞ」
という返事を間くと、旅人は懐に手を入れて、
土産物の手拭を取り出すと、
「手めえ生国と発しまするは、赤城の山の吹きおろし
利根の流れに生ぶ湯をつかいまして」と、
長々とした、おきまりの仁義のやりとりが続くわけである。
初対面の挨拶と、来訪の目的やヽ親分へのお願いなどを、
型通り申しのべるわけで、これを仁義といい、
双方とも緊張したもので、もし旅人に失礼があると、
取次の子分は、相手を突き刺すこともあった。
むかし上州邑楽郡、間の川又五郎という侠客が旅して、
二本松の松吉というのを尋ねて、仁義したが、
そのとき仁義がまだ未熟で、何か不作法があったらしく、
又五郎は乞食でも追い払うような言葉が返ってきて、
追い払われている。やくざ渡世もなかなか難しかったらしい。
むかし、上州にはやくざ者が甚だ多くて、
自慢にはならないが、いわゆる「上州無宿」は、
日本一であった。どういうわけか、上州に次いで多いは
越後無宿であるが、何故上州にはこんなに多くの
やくざ者がいたのであろう。それはとくに東毛地方の農村地帯が、
経済的に豊かだったからである。この経済の豊かさが、
やくざ者を生む原因であった。その頃から越後からは百姓が、
出来なくなり、旅稼ぎ人が多かったが、
この連中が身を持ちくずすことになる。上州のやくざ者は
江戸中期ごろからあらわれ、後期に入ると爆発的に多くなる。
土産物の手拭
今でも、上州地域では「てにぐい代わりの、つまんねーもんで」と
私は、土産を差し出すが、ごく普通の言葉である。
それも、此の頃の名残りかも知れない