アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 無宿者の背景之弐

2013年08月23日 | 近世の歴史の裏側

境町の六斎市

 

境町の六斎市が立てられたのは正保二年で、この二・三年前に町中に

はじめて例幣使街道が通じて、だんだん町並をなすようになったからである。

開くには村作りに当った旧族の四人が伊勢崎藩の領主に願い出たもので、

市日は伊勢崎市の翌日にあたる二・七といわれて毎月六度の開市である。

町中の町内を三つに仕切り、上・中・下市とし、場所を替えて

順番に開市された。

開市のときはまだ境村と呼ばれたが、

間もなく町並がととのって境町と名が変った。

開市の二年後から例幣使の御通行がはじまったのである。

 後年になり近くに新規に六齋市が立てられるようになると、

当然従来の市場が不利益になると

ころから、既存の市場から大反対が起こっているが、

境町開市のとき早くから伊勢崎市があったが、

伊勢崎からは何の苦情もなかった。境町、伊勢崎は参里を隔てた。

境町六齋市が立てられた。

                      

 

 

 

真説 国定忠治  補足

 

知人より内容が解らないとの、助言有

 ここで、若干補足説明をしたい。

 

糸引き唄には

 

五十三八 一六よりも

    わたしや二七が まだつらい

 

 当時、境町地方にうたわれた糸引き唄で、五十は深谷市、

三八は太田市、一六は伊勢崎市であったが、

之は、五十は、五と、壱拾のつく日 五、十、十五、二十、

二十五を指す意味でつまり五、十日ある、

したがって、境町の六斎市場は、二七で、二日、七日、十二日、

十七日、 二十二日、二十七日で、計六日間 開かれた市

 

境町の六斎市場が、糸値は一ばん高く売れたのである。

それだけ糸の吟味をしたわけで、境市に出すときには、

よほど丁寧に糸引きし、良質の生糸を引いたのである。

境市に出された絹糸は「境下げ」と呼ばれ、それは良質を

意味したわけである。もちろん良質の糸引きには、

それだけの注意が必要だったので、こんな糸引き唄が

いまに伝えられている。

 

「太織縞(ふとりじま)」と呼ばれたもので、多くは江戸に

輸出された。

太織縞は、其の三で、記載の通り太織縞は縦に絹糸を、

横糸に屑糸を用いたもので、普通はただ「ふとり」と呼んでいた。

之が後の、伊勢崎銘仙につながる事になり、大正、昭和初期に

佐波伊勢崎地区に、莫大な富を齎事になった訳です。


                 
                          つづく


真説 国定忠治 農民の実態

2013年08月23日 | 近世の歴史の裏側

 

延享三年に幕府の役人巡見使の出張があったー巡見使は幕府将軍の

代替りごとに、全国に差遣されて、農村の実態を調べたのである。

そのときいま境町分にある西今井村の惣百姓が、

廻村してきた巡見使に差出した訴状が伝えられている。

 それは一反の下田を一年耕作して米九斗を得るが、

五公五民で四斗五升が年貢になり、四斗五升が残る。

しかし小作百姓のために、のこりのうち半分の二斗二升五合を

地主に取り上げられ、小作百姓の作徳は二斗五升五合である。

一年汗水流して二斗五升余の作徳では、百姓は生活出来ないというものである。

そのため年貢は勘弁してくれという。

これは公的な書類であるから本当だったと思われるが、

一年間汗水の百姓の苦労は米三十キロにもならなかったのである。

このような次第では農業不振は当然で、昼業ばなれした百姓はほかに

生計の道をもとめることになる。

米麦耕作を主とした時代には養蚕は百姓の正業にはなかった。

そのため養蚕にかかわる年貢記録はない。しかしこの地方の百姓を

大いに潤したのは養蚕であった。

領主方に差出された書付にも、業余として「蚕少々仕候」とあるのはよい方で、

ほとんど養蚕のことは記録されていないのが実際である。

したがって養蚕にかかわる記録は非常に少なく、

無いといってもよい程である。この地方はかなり早い時から

養蚕があったはずであるが記録はない。

 宝暦九年に伊勢崎町に十二人の絹宿渡世があって、

この年伊勢崎の六斎市の糸絹取引は、少ないときで一市に

絹織物三十疋、多いときには五百疋もあり、また絹糸は四十貫から

百五十貫もあった。当時糸絹の相場は非常に高かったので、

百姓にはよい稼ぎだったはずである。これほど大量に糸絹の

生産がありながら肝腎の養蚕記録が全くないのは不思議に思われる。

伊勢崎藩絹宿の書上には

「糸絹の村方は、少々づつ手前にて蚕仕り、右の繭にて糸絹いたし候」とある。

 信州の繭売り、上州の糸売りといわれて、信州の百姓は糸引きを

やらなかったが、上州の女はみんな糸引きしたので、繭売りは少なかった。

女の糸引き稼ぎは農村の経済をゆたかにしたのである。

糸引きするには養蚕があったわけだが、伊勢崎藩は田畑に桑を

仕付けるのを禁じている。

それは本田畑を桑畑にしてはならないからで、

桑畑にすると年貢がなかったので、これを禁じたので、

畦桑といわれた少しの桑だったようである。したがって養蚕規模も

あまり大きいものではなかったであろうが、村中の百姓が養蚕すれば、

大きな繭の生産があったはずである。

 嘉永元年、いまは伊勢崎であるが、当時前橋領分であった上之宮村の

百姓八十九軒が養蚕を行っていて、その蚕掃きたて数は百二十枚である。

これには蚕積み金というのがあって十一両の積み金を前橋藩に報告している。

積み金であるから年貢ではなかったが、前橋藩では積み金と称して

取りたてたようである。掃きたての蚕種紙数は一枚から三枚を限度とし、

二軒で一枚もあって、決して大きい養蚕ではないように感じられる。

 宝暦十一年、那波郡戸谷塚村明細帳に、

「当村家数二十五軒、蚕仕り、絹糸にいたし中候」とあり、

本綿布絹綿は女仕事としている。那波郡下道寺村書上

「作物之外、産物蚕」とある。連取村の書上にも

「女は糸機太織縞、その外養蚕等営み」とあるが、

このように領主役所に書上げることは少ない。

主として養蚕が女稼ぎだったとしているが、このようなことはどの村も

同じだったと思われるが、書類の上にあるのは割合に少ない。

年貢の対象にされるのをおそれたからであろうが、

そのために当時の実状は推定のほかにないことになる。

記録の有無にかかわらず、養蚕はさかんに行なわれ、

江戸時代中期以降、村方は非常にゆたかだったのは間違いないであろう。

 百姓男稼ぎは薪取りとか、駄賃稼ぎなどを書きあげるのが大部分であるが、

このような稼ぎはその日暮らしの助けであって、経済的ゆたかさに

もとめられない。ほかには昼間渡世とする商業活動がすこぶる

さかんだったのである。その中心は糸絹取引で、

大きな資金が必要であったが、利益が大きかったのである。

百姓は資本家から金を借りだして、糸絹織物を買い集める、

資本家はその糸絹を引き取って、江戸や京都に翰出したが、

そこには大きな利益が得られた。お互いに大きな利益が得られた為に、

百姓はむしろ商業渡世に走ってしまい、農業が疎かになる。

当時の百姓は二反、三反の田畑をもつ農業が普通で、

農業がお年の収穫のうち五公五民といわれて、

半分年貢を上納すると残りは少ない。

農業一派で一年苦労するよりも、昼間渡世といわれた商業活動の方が

はるかに面白かった。そのため領主役人が何ほど農業振興を叫んでも、

時代とともに農業ばなれが進んだのである。その結果潰れ百姓とか、

荒地が多くなる一万であった。

 農間稼ぎには大工や鍛冶屋などといういろいろな職人があった。

町場の店借らは本業であったが、

村方にあっては農業の傍らの、いわゆる昼間渡世で、本業は百姓である。

 

店借

読み方:タナガリ

近世の町場において家屋のみの賃借をいい、また、店を借り、

あるいは家を借りて住む居住者をさす。