アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐

2013年08月17日 | 近世の歴史の裏側

 

俺には小松五郎という強え味方があったのだ」と,

国定忠治は、赤城山で大見栄を切った。そばには板割の浅と日光の円蔵が

ひざをついて控えていた。折からの名月で、忠治が振リかぎした

小松五郎義兼の銘刀は、霜のごとくかがやいて美しかった。

沢正以来、芝居に映画に、名月赤城山の場面は

多くの人になじみ深い。国定忠治が愛刀小松五郎を帯して大活躍し、

岩鼻の代行所に子分をひきいて斬り込み、悪代行松井軍兵衛を斬った、

と信じて疑う人はいないのである。

 だが、伝えられる忠治の話にはどうも墟が多くていけない。

大活躍したのは事実であるが、これは一人か二人の百姓や町人を

相手に、大勢の子分と一緒になっての乱暴ろうぜきの大活躍である。

斬り殺したはずの松井軍兵衛なる者は、岩鼻大官所には

後にも先にも居たことがなかったのである。

 また、銘刀の作者と称される小松五郎義兼という刀工も、

実は日本全国どこにもいないのである。

これは野鍛冶の義兼作を間違えて伝えたものと考えられる。

小金井村には、明治元年作「青竜子義兼」の銘刀が残っているので、

確かに義兼なる刀工は実在したが、小松五郎とは称していない。

 義兼は加賀の国の刀工であったが、名工であっただけでは飯が食えなかった。

その為、各国を渡り歩き、あちこちで居候し、笠懸村に来て住み着いた。

腕の良い名工であったが、刀の注文はあまりなかったので、

ナタやカマ、クワなどの農具を作っていた。いわゆる野鍛冶である。

だが義兼作の刀も、ようやく忠冶によって名を上げ、

天下の銘刀となったのである。

 

 

 沢 正

 さわだ‐しょうじろう 【沢田正二郎】

 [18921929]俳優。滋賀の生まれ。文芸協会・芸術座を経て、新国劇を創立。

剣劇で大衆的人気を博し、「沢正(さわしょう)」の愛称で親しまれた。

その後、辰巳 柳太郎、大山克己と引き継がれた。