アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 農民の実態

2013年08月23日 | 近世の歴史の裏側

 

延享三年に幕府の役人巡見使の出張があったー巡見使は幕府将軍の

代替りごとに、全国に差遣されて、農村の実態を調べたのである。

そのときいま境町分にある西今井村の惣百姓が、

廻村してきた巡見使に差出した訴状が伝えられている。

 それは一反の下田を一年耕作して米九斗を得るが、

五公五民で四斗五升が年貢になり、四斗五升が残る。

しかし小作百姓のために、のこりのうち半分の二斗二升五合を

地主に取り上げられ、小作百姓の作徳は二斗五升五合である。

一年汗水流して二斗五升余の作徳では、百姓は生活出来ないというものである。

そのため年貢は勘弁してくれという。

これは公的な書類であるから本当だったと思われるが、

一年間汗水の百姓の苦労は米三十キロにもならなかったのである。

このような次第では農業不振は当然で、昼業ばなれした百姓はほかに

生計の道をもとめることになる。

米麦耕作を主とした時代には養蚕は百姓の正業にはなかった。

そのため養蚕にかかわる年貢記録はない。しかしこの地方の百姓を

大いに潤したのは養蚕であった。

領主方に差出された書付にも、業余として「蚕少々仕候」とあるのはよい方で、

ほとんど養蚕のことは記録されていないのが実際である。

したがって養蚕にかかわる記録は非常に少なく、

無いといってもよい程である。この地方はかなり早い時から

養蚕があったはずであるが記録はない。

 宝暦九年に伊勢崎町に十二人の絹宿渡世があって、

この年伊勢崎の六斎市の糸絹取引は、少ないときで一市に

絹織物三十疋、多いときには五百疋もあり、また絹糸は四十貫から

百五十貫もあった。当時糸絹の相場は非常に高かったので、

百姓にはよい稼ぎだったはずである。これほど大量に糸絹の

生産がありながら肝腎の養蚕記録が全くないのは不思議に思われる。

伊勢崎藩絹宿の書上には

「糸絹の村方は、少々づつ手前にて蚕仕り、右の繭にて糸絹いたし候」とある。

 信州の繭売り、上州の糸売りといわれて、信州の百姓は糸引きを

やらなかったが、上州の女はみんな糸引きしたので、繭売りは少なかった。

女の糸引き稼ぎは農村の経済をゆたかにしたのである。

糸引きするには養蚕があったわけだが、伊勢崎藩は田畑に桑を

仕付けるのを禁じている。

それは本田畑を桑畑にしてはならないからで、

桑畑にすると年貢がなかったので、これを禁じたので、

畦桑といわれた少しの桑だったようである。したがって養蚕規模も

あまり大きいものではなかったであろうが、村中の百姓が養蚕すれば、

大きな繭の生産があったはずである。

 嘉永元年、いまは伊勢崎であるが、当時前橋領分であった上之宮村の

百姓八十九軒が養蚕を行っていて、その蚕掃きたて数は百二十枚である。

これには蚕積み金というのがあって十一両の積み金を前橋藩に報告している。

積み金であるから年貢ではなかったが、前橋藩では積み金と称して

取りたてたようである。掃きたての蚕種紙数は一枚から三枚を限度とし、

二軒で一枚もあって、決して大きい養蚕ではないように感じられる。

 宝暦十一年、那波郡戸谷塚村明細帳に、

「当村家数二十五軒、蚕仕り、絹糸にいたし中候」とあり、

本綿布絹綿は女仕事としている。那波郡下道寺村書上

「作物之外、産物蚕」とある。連取村の書上にも

「女は糸機太織縞、その外養蚕等営み」とあるが、

このように領主役所に書上げることは少ない。

主として養蚕が女稼ぎだったとしているが、このようなことはどの村も

同じだったと思われるが、書類の上にあるのは割合に少ない。

年貢の対象にされるのをおそれたからであろうが、

そのために当時の実状は推定のほかにないことになる。

記録の有無にかかわらず、養蚕はさかんに行なわれ、

江戸時代中期以降、村方は非常にゆたかだったのは間違いないであろう。

 百姓男稼ぎは薪取りとか、駄賃稼ぎなどを書きあげるのが大部分であるが、

このような稼ぎはその日暮らしの助けであって、経済的ゆたかさに

もとめられない。ほかには昼間渡世とする商業活動がすこぶる

さかんだったのである。その中心は糸絹取引で、

大きな資金が必要であったが、利益が大きかったのである。

百姓は資本家から金を借りだして、糸絹織物を買い集める、

資本家はその糸絹を引き取って、江戸や京都に翰出したが、

そこには大きな利益が得られた。お互いに大きな利益が得られた為に、

百姓はむしろ商業渡世に走ってしまい、農業が疎かになる。

当時の百姓は二反、三反の田畑をもつ農業が普通で、

農業がお年の収穫のうち五公五民といわれて、

半分年貢を上納すると残りは少ない。

農業一派で一年苦労するよりも、昼間渡世といわれた商業活動の方が

はるかに面白かった。そのため領主役人が何ほど農業振興を叫んでも、

時代とともに農業ばなれが進んだのである。その結果潰れ百姓とか、

荒地が多くなる一万であった。

 農間稼ぎには大工や鍛冶屋などといういろいろな職人があった。

町場の店借らは本業であったが、

村方にあっては農業の傍らの、いわゆる昼間渡世で、本業は百姓である。

 

店借

読み方:タナガリ

近世の町場において家屋のみの賃借をいい、また、店を借り、

あるいは家を借りて住む居住者をさす。

 


真説 国定忠治 其の六

2013年08月22日 | 近世の歴史の裏側

忠治、伊三郎を闇討ち

  その年七月二日、世良田村長楽寺裏山に開かれた賭場に

伊三郎が、来ると知り忠治、文蔵ら十人は秘かに境町に来ると、

町の東はずれにある藤屋という吞屋に入り、

一人を伊三郎の賭場にやり、やがて夜になり藤屋で待っていた忠治らに、

遠見に出た子分が息せき切って走ってきた。

今、伊三郎が帰り支度しているという。

忠治、文蔵ら十人はそれっと言って藤屋を出る

夜に入って子分の一人をつれて島村の帰路についた。

丁度小雨が降り出したので、伊三郎は片手に傘、

片手に提灯を持って、境村(高岡村)原山と呼ぶ雑木林に差しかかった。

すると突然忠治、文蔵ら十人の待伏せに会い、

不意を襲われてここに絶命したのである。いかに腕力にすぐれたものでも、

夜間十人に不意を突かれては決してかなうものではない。

致命傷は肩先から背中かけて一尺七、八寸の疵であった。

文蔵は後ろから不意に一撃し、さらに忠治らによって

滅多打ちにされたのである。

伊三郎は四十四才であった。後ろからついてきた子分は、

テラ銭の入った銭箱をほうり出すと一散に逃げ帰った。

 伊三郎の遺骸は駈けつけた親類の松之助に引き取られたが、

それは九死に一生の様子で、直ちに療治しなければならないという理由であった。

境村の名主がお上の検死もうけずに遺体を引き渡した事は、

天保九年九月文蔵が召し取られてから再度お糾しがあった。

それは文蔵の罪が殺人か殺人未遂であったかを定めるためである。

親類に引き取られた伊三郎は、無宿者であったから村の立作に葬ることが

出来なかったので、兄貴分の牧西の兵馬が引きとって、

牧西の宝珠寺の平野家墓地に葬られ、

伊三郎の女房むめが、石塔を建てている。

そして明治十四年春、孫の丑松が居村立作の町田家墓地に改葬した。

碑面に蓮清浄花信士とあり、碑側には伊三郎が町田吉左衛門の

五代孫であることと、歿年享年が刻まれている。

 一説に伊三郎の賭場荒しをした忠治を子分たちが捕え、

簑巻にして利根に投げ込もうとしたのを客分でいた日光円蔵が

伊三郎に話して、若い忠治を助けたという話があるが、

これは真実ではないようである。

忠治には、単身賭場を荒すなどという度胸は無かったはずである。

伊三郎の話は地元にもほとんど伝えられておらないし、古文書類の資料もない。

しかし巷間伝えられるような、忠治に対する悪玉的人物では

決してなかった。

これは全くあべこべで、正義任侠道をあるいた伊三郎であり、

度胸がなく闇討ちばかりしていたのは無頼の忠治だったのである。

境町、長光寺に伊三郎を追悼した盤若経が納められており、

それに蓮清浄花信士の名がある。戒名に花という文字は博徒で

なければ決して用いなかった。

 伊三郎を殺害したことにより、忠治は八州役人の大手配を

うけることになった。

大谷光陰録に「忠治郎御尋に付御取締御出役三百余人人足、

仮令親類たり共隠し置候ハ、重科云々」とある。

通常やくざ者同志の出入に八州役人がこんな厳しい

詮議をすることはなかったが、

忠治一味が平常一般市民にしきりに暴行を働いたので、

その所為を非常に憎んだのである。


関東取締出役

 

関八州とは関東地方にあった八つの国を指します。

 

・武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県)

・相模国(神奈川県)

・上総国(千葉県中部)

・下総国(千葉県北部・埼玉県・東京都・茨城県)

・安房国(千葉県南端部)

・上野国(群馬県)

・下野国(栃木県)

・常陸国(茨城県)

 以上の八国です。

 

ちなみに関八州の役人は関東取締出役、いわゆる八州廻りと呼ばれた。

勘定奉行配下で代官所の吏員から任命(身分上は足軽格)され、

各国を巡回しては治安維持に従事した。(ただし水戸徳川家は御三家で、

                             水戸家領だけは例外)

また本来であれば下級武士には、

到底許されない駕籠を乗り回し、泣く子も黙ると恐れられた。

しかし、映画、ドラマのように、召捕りに行くことは殆ど無く、

刀を抜くこともなかったが、それでは、主役として絵にならないから

自ら先頭に立ち悪人と戦く場面となるが、

多くは宿場で指図を出す

忠治の大手配を行うに当たり木崎宿で滞在し全てを取り仕切った,

勿論、召捕った者は全て木崎宿へ差出された。

 

                      つづく

                  


真説 国定忠治 無宿者の背景

2013年08月21日 | 近世の歴史の裏側

国定忠治など、無宿者の背景には、この地方に経済基盤の発展があり

その中過程で、無宿者が生まれたので、市場の発展について述べておきたい。

 六齋市場

 まだ貨幣経済がなく商業活動未発達の江戸時代初期には、

この地方の人々は江戸に米売りに行った。馬に米二俵を積んでいったが、

その途中の板橋にはまだ米屋がなかったので、神田で売ったといい、

それは米二俵金二分であった。物資交流が不十分だったときである。

そのころ百姓の経済交流の場は六齋市場で、江戸時代にこの地方には、

伊勢崎位置、境町市、柴宿の煙草市、また一時立てられた百々市もあった。

六斎市にはまず市神である天王宮を建てるが、境町市立のときには天明、

いまの佐野の市場の天王宮の土をとりに行き、それを町の市場に埋めて

天王のお宮を建てたと記録にある。

現在の瑳珂比神社である。

正月の初市を「寄市」といって、伊勢崎は正月六日、境町は七日で、

いずれもこの日初市祭りがあった。十二月は伊勢崎は二十一日、

境町は二十二日が暮市といわれた。年中の市日には伊勢崎藩の役人が

市検断と称して出張した。

 そこには農産物を売りにくる百姓と、商人、いわゆる昼間渡世と

いわれた人たちが寄り集ってきた。

はじめのころは町村に商店というものが無かったので、

売り買いはすべて六斎市日に行なわれた。

同時にこうして六齋市は、百姓の寄り集まりがあって、

一種の社交場的雰囲気もあって、百姓が人々に出会うのを楽しみにしていた。


江戸中期になり俳人栗庵日記に、

外出はほとんど六齋市日で、一日中市場をうろうろしている

様子を記録している。

そこには諸友との出会いがあったからで、

ただの経済交流だけではなく、これは社交場としての存在もあった。

 六齋市立は領主役所と幕府へ願出でて、新規に立てるわけであるが、

これは既存の近くの市場に影響があって難しかった。連取村でも

六齋新市の企てがあって、たびたび領主役所に願い出ている。

連取村には江戸道が通じていたので、その道端に立てるはずであったが、

これはついに許可にならず、連取村六齋市は実現しなかった。

 市場は町の大通りに開かれ、野菜物などの農産物の売手もあったが、

この地方の市場はほとんど糸絹商人の買手が主流であった。

この買手商人は場所の良し悪しによって成績が変ることから、

自然よい場所につこうとする。その場所割についてはどこの市場でも

出入りがしきりにあった。

それは地元商人と他所商人と呼ばれた人によって争われることが多い。

割合に地元商人が良い場所につきたがるからで、それでは遠くから

出張した他所商人が承知しなかったのである。例えば伊勢崎市も

境町市も大体同じような規模になったが、他所商人は七・八十人もあって、

地元商人数を上まわっていた。そのため他所商人を大事にして市場の

繁昌をはかったのである。

 市場に集る糸絹商人からは、寛保年間まで茶代世話料として五十文を

取り立てたが、それは一人何疋を売り買いしてもよかった。

しかし寛保の大洪水から百姓が不景気になって、

それからは茶代を廃し、二十四文のわずかな世話料だけであった。

ところが宝暦九年になり、幕府は新規に市場口錢一疋につき五十文の

取り立てを触れた。これは大変な世話貨になるために、

上武両州の市場が猛烈な反対運動を起こしたのである。

世にこれを宝暦の絹騒動といい、あまりに反対が大きかったために

口錢銭取立はなくなった。

 糸絹商人といわれたものは、市場だけで買い取るのが建前でとあったが、

時代とともに糸絹の生産が増大するようになると、

自然に商人たちは出買いというのをはじめるようになる。

市場の外での買収や村方を出廻って買い集めるのである。

このようなことが行なわれるようになると、

百姓が市場へ売りに末なくなる。市場が衰微しては大変として、

糸絹の出買いを厳重に禁止している。

 伊勢崎風土記によれば、伊勢崎の六齋市は元亀年間から開かれたという。

一の日、伊勢崎市場 六の日の毎月六度立てられたので一・六の六斎市と

呼ばれた。伊勢崎には伊勢崎藩塁城に陣屋があったので、

城下町の市場として次第に栄えたようである。しかし新市が立てられたころは、

まだ戦国時代末期の様相にあったし、また地方産業も未発達であったから、

経済活動が活発に行なわれたであろうか。貨幣経済も不十分だったと

考えられる。次第にさかんになってくるのは後で、はじめ本町だけで

立てられていたのを、寛永二十年に本町と西町の二市に分かれたが、

それは六斎市の繁昌があったからである。その後万治二年に新町に分かれ、

伊勢崎は三市になっている。これは六斎市の盛んになったの事を

物語るものであろう。

六斎市取引の主流が糸絹にあったことは、すでに述べた通りであるが、

宝暦九年当時伊勢崎の有力な絹宿商人と呼ばれたのは十二人で、

これに付属する大勢の買い子があったのである。

この年の市場取引数をあげると、

  一市ニ付  三・四月            絹   三十疋ほど

  同     七・ハ・九月          同   五百疋ほど

  同     十・十一月           同   五十疋ほど

  同     六・七・八月          糸   百五十質匁ほど

  同     九・十月            同   四十質匁ほど

 というもので、とうじすこぶる高価な糸絹であったから、

一市の出来高は大変な金額であった。

この数字は年とともに養蚕が大きくなり、糸絹産業がさかんになると、

この地方の大きな資本力として、町村方経済を大いにゆたかにしたのである。

 江戸時代中期までは主として絹糸の売買で、大体は江戸に出されたが、

とくに良質のものは登せ糸といわれて京都に輸出された。

太織縞は江戸で大変評判が良かったので、生産が需要に間に合わず、

江戸駿河町の越後屋をはじめとして、諸方からの買い人が集った。

こうして文化、文致年間、伊勢崎六市は最盛の時期にあり、

さらに幕末期の黄金時代を迎えた。

 六斎市場にも香具師の縄張りというのがあったらしく、

天保六年に下値木村の百姓四人が野葉物を六斎市場に売りに出たところ、

香具師仲間に止められてしまい、百姓がその不当を幕府奉行所へ訴え出ている。

百姓は青物類を売りにゆくのは勝手次第といい、香具師仲間は市場の

取締りにならないとして、売り場を止めている。このような野菜青物類を

売りに出るのは、伊勢崎市にかぎらず、どこの六斎市にもあったと思われるが、

いずれにしても六斎市にかかわっていたことである。

このようなかかわりは境町市場にもあった。

俳人栗庵

栗庵似鳩は(りつあん・じきゅう=姓は玉置)大阪生まれの俳人

似鳩は、生まれ故郷の大阪で食い詰めて江戸に出てきた。
しかし、江戸の風も合わなく中山道を通って大阪に帰る途次、
俳句仲間の長沼観音寺の僧松谷に会うべく雪の道を歩いてきた。
お金もなく空腹のため那波郡上蓮沼村(現上蓮町)の雪道に倒れてしまう。
幸運にも名主の高柳勘太夫に助けらた。
明和6年(1770)11 月 23 日のことであった。
庵の軒先に栗の木があったことから、その庵を「栗庵」と名付け、
自らの号にも用いた。そして蕉風俳諧の普及に努め、詳細な日誌をつけ、
寛政期の3年分が残されている。
その中には、和佐田地澄がいて、
栗庵似鳩の有力な門人として聞こえた池澄は、保泉村の人、
名は和佐田芝侶、通称を喜右衛門といい、大農の主人で、
村の名主役を勤めていた。
 俳師栗庵は毎日のように庵を出杖すると、四方にさまよい歩いたが、
その杖が北に向くと、大体保泉村にきて、池澄の家にひと休みするのが例であった。

「池澄子をたずぬるに、主人は農に出しとてあらず、涼をとらんと坐に上りて」

     などと日記している。天明年間からこの師弟は往来して俳諧にはげんだのである。

  夕 暮 も あ や な き 梅 の 匂 ひ か な       

                         池  澄

  草 刈 り の 戻 る 道 辺 や 露 し ぐ る  

                         池  澄        

 栗庵日記の正月に「保泉池澄子人来、年玉鳥目拾疋給わる、

   折ふし風荒吹き出ぬ」というような記があり、その後に

  元 日 や 開 き そ め た る 福 寿 草   

                         池  澄

  天保四年十一月九日、七十一歳で世を去った。

その墓碑銘は同村の鈴木広川が撰しているが、

鈴木広川の門弟には、金井烏洲などがいた。

                      つづく


真説 国定忠治 其の五

2013年08月21日 | 近世の歴史の裏側

 

○島村伊三郎との関わり

 

 上州無宿の本場、境町地方において、早くから組織的な

博徒の親分と称されたのは、島村伊三郎であった。

無宿者ではあったが、生涯一度も人をあやめたり、

非道の行動のなかった伊三郎は、いま敵役の国定忠治のために

誤り伝えられるところが多い。講談に映画に、伊三郎は

ほとんど悪玉の張本のように伝えられてしまったのである。

 島村伊三郎は境町島村字立作(りうさく)の人で、

本姓町田氏、家は代々船問屋を営んだいわば村の名家である。

歿年から逆算すれば寛政元年に生れた。

若いころの事績について伝えるものはないが、

家業をついで船問屋の主人となったが、ところが遊侠の風がさかんで、

自分から船問屋をすてて無宿になったといわれる。

文化の末か、文政のはじめ頃であろう。

隣村の武州牧西に兵馬がいて、兄弟分として遊侠の群れに投じた。

伊三郎は身丈が六尺あったそうで、非常に腕力がすぐれていた。

そのため自ら島村一家をなし、その親分におさまったのである。

 島村一家の縄張りは境町から新田一円で、例幣使街道を通じる

この地方は、ことに養蚕、織物がさかんで、

上州においてももっともよい賭場とされた。

文政年間に間八州取締御出役が定められて、いわゆる八州さまと呼ばれた

役人が関八州を廻村して治安に当ったが、伊三郎は御用聞きの

鑑札をさずけられ、道案内を勤めるようになった。

道案内ははじめ村役人が勤めたのであるが、

いずれ村役人がこれをきらったので、

間もなく博徒がきそって道案内を勤めるようになった。

いわゆる、二足の草鞋である。

時代劇でもお馴染みの『目明し、岡つ引き』で正式には、道案内人ある。

八州役人も土地の事情に通じた博徒などを使う方が都合がよく、

無頼の徒や諸種の犯人を召捕る仕事をしたのである。

生涯凶状のなかった伊三郎は、かようにして八州役人の

手下を勤めたが、

赤城下の三室の勘助も、博徒の親分であり、道案内人であった。

 天保五年春、境町を通りかかった伊三郎は、桐屋という

呑屋で三ツ木文蔵が暴れているのを見た。

主人の金次郎は香具師不流一家の身内であったががどうすることも

出来ないので、無法者であるから、

伊三郎は暴れる文蔵を大道に引き出して十分に打擲したのである。

こうして伊三郎は文蔵、忠治らの恨みを買ったしまったのである。

 

                   つづく


真説 国定忠治 番外編

2013年08月20日 | 近世の歴史の裏側

 

やくざの掟


  仁義の切り方によって

 取り次ぎの子分に通じて

入口の土間の隅に、両手の指先を地面につけてひかえる。

 「お控えなしておくんなんし」と、

口をきると、受け入れる方でも、同じ言葉を繰り返します。

すると 「つきましては、懐中ご免こうむります」

 「どうぞ」

という返事を間くと、旅人は懐に手を入れて、

土産物の手拭を取り出すと、

「手めえ生国と発しまするは、赤城の山の吹きおろし

利根の流れに生ぶ湯をつかいまして」と、

長々とした、おきまりの仁義のやりとりが続くわけである。

初対面の挨拶と、来訪の目的やヽ親分へのお願いなどを、

型通り申しのべるわけで、これを仁義といい、

双方とも緊張したもので、もし旅人に失礼があると、

取次の子分は、相手を突き刺すこともあった。

むかし上州邑楽郡、間の川又五郎という侠客が旅して、

二本松の松吉というのを尋ねて、仁義したが、

そのとき仁義がまだ未熟で、何か不作法があったらしく、

又五郎は乞食でも追い払うような言葉が返ってきて、

追い払われている。やくざ渡世もなかなか難しかったらしい。

 むかし、上州にはやくざ者が甚だ多くて、

自慢にはならないが、いわゆる「上州無宿」は、

日本一であった。どういうわけか、上州に次いで多いは

越後無宿であるが、何故上州にはこんなに多くの

やくざ者がいたのであろう。それはとくに東毛地方の農村地帯が、

経済的に豊かだったからである。この経済の豊かさが、

やくざ者を生む原因であった。その頃から越後からは百姓が、

出来なくなり、旅稼ぎ人が多かったが、

この連中が身を持ちくずすことになる。上州のやくざ者は

江戸中期ごろからあらわれ、後期に入ると爆発的に多くなる。

 

土産物の手拭

 

今でも、上州地域では「てにぐい代わりの、つまんねーもんで」と

私は、土産を差し出すが、ごく普通の言葉である。

それも、此の頃の名残りかも知れない

 

 


真説 国定忠治 其の四

2013年08月19日 | 近世の歴史の裏側

 

○百々紋次とは、


 ところで忠治が頻ってきたという百々紋次のことであるが、

寛致から文化年中に村役人の組頭を勤めていた羽鳥紋吾が

いて、この人は文致二年に七十六歳で亡くなった。

この紋吾に二人の子があって、次男を弥求といったが、

この男は文政四年に除帖無宿になっている。

       乍恐以書付本願上候

 一、当村紋吾後家倅弥求儀、身持不行跡二付、親類組合度々異見

   差加圧呉候得共、一図相用不申候、依之向難ノ程難斗本存候二付、

   親類組合相談ノ上、此度親勘当仕度本願上候、何卒以御慈悲右願之

   通被仰付被下置候様、御上江御取成之程、偏ニ申願上候、

   右願之通被仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候

    文政四巳年三月

このような書類があって、弥求は無宿になったようで、

紋吾の次男だったので、

百々紋次と称したのではないかと思われる。

この除帖無宿というのは、むかしは連帯責任があった。

村の五人組帖に名前が登載されているものが、何か犯罪を犯すと、

五人組、親類、村役人まで同罪として処分されたので、

紋次のように身持ち不行跡者は、何をやりだすかわからない。

もし御法度に触れて召捕られるようなことがあると、

四方へ迷惑がかかるわけで、かような不届き者があると、

領主方へ願い出して、五人組帖から名前を消すことになる。

五人組帖にはいろいろな張り札があって、名前の上の張り札に、

何月何日、どこへ引っ越したとか、嫁入りしたとか注記されるが、

紋次の場合は身持ち不行跡につき除帖となる。帳面に張り札されるので、

むかしから悪漢を「札付き」といったが、

俗に言う札付きの悪の語源である。

それは五人組帖の張り札であった。

除帖者になると、普通には村方にいることが出来ないはずで、

その辺の事情が知られないが、村の経蔵寺内に、

「花輪映光居士」という墓があり、

村の人は紋次の墓だという。戒名に「花」宇を用いるのは、

博奕打に限られているので、紋次の実在は証明されるであろう。

紋次の死は文政十三年ごろといわれ、紋次の死後百々一家は

忠治が次いだ。

忠治は百々村に数年いたらしいが、元々この地方は島村伊三郎の地盤であった。

文政年間の頃から、治安が乱れると幕府は、関東御取締御出役を設けた。

八州様と呼ばれ、江戸の役宅を出て、関八州を廻村して

やくざ者の取締りを主とした。

江戸から来るので不案内のため、村役人に道案内を命じたが、

次第に村役人がこれを嫌うことになり、

代ってトガのないやくざ者が勤めるようになる。

 

トガ

 

この場合は人殺しの前科で、語源はお咎め、とが・む【咎む】である。

 

                       つづく


真説 国定忠治 其の三

2013年08月18日 | 近世の歴史の裏側

 

国定忠治の生れた地方では、

 

養蚕が盛んで、米は年貢を納めるが、養蚕は無税で田畑は桑を

植え養蚕が盛んになった。

現在の、東毛地方を中心に特に、現在の伊勢崎市境では、

六斎市が開かれ高値で売れた。

下げ糸にならないくず繭も、真綿にして売ったわけである。

しかし良い「さかい下げ」ばかりは得られない。

半分は屑糸になるわけであるが、その屑糸が大きい役目を成る事になる。

この地方にも寛政年間ごろから、織物の技術が段々普及するようになる。

それは太織縞という織物が生産されて江戸に輸出されたが、

これが大変評判がよく、何ほど生産しても間に合わなかった。

大資本力をもつ豪家主人がこの織物渡世に手を出したのは当然で、

村方へ「いざり機(はた)」を貸し与え、織り方を指導してまわっている。

当時はそれを元機屋(もとはたや)と呼んだが、

江戸の需要に生産が間に合わなかったのである。

太織縞は縦に絹糸を、横には先に言った屑糸を用いた。

 太織縞の生産は近世中期のはじめ頃からあったが、

大体は地遣いであったが、

寛政年間にいたると江戸で珍重されることになる。

絹物であるから肌ざわりが良い、横糸に太い屑糸を用いたので

丈夫である、そして半分屑糸であるから、値段が安かったわけで、

この三拍子によって、江戸市民に大いに評判されたのであった。

之が後に伊勢崎銘仙に、なる訳で有る。

 太織縞の織り賃はよい手間稼ぎだったので、次第に大きく普及する事に

なり、生産は大いに増大したが、養蚕から繭取り、繭から糸引き、

そして太織縞の生産へと、より付加価値の高い製品になった、

そのため村方の経済力は、次第にゆたかさを増すことになる。

しかしこの仕事は何れも女仕事で、どの村の女も夜の目も寝ずに働いた。

信州では殆ど繭売りしてしまうので、女たちは三食昼寝つきであったが、

上州のかかあどんは、とんでもないわけで、寝ずにはたらいたのである。

ところが男たちは、一と月ばかり養蚕仕事をすると、

あとは用が無くなってしまう。

田圃は放り出して草取りもしない。農業では食うことが出来なかったし、

閑をもてあますことになり、だんだん勝負事などに手を出すようになる。

いつの時代でも勝負事は面白いから、手を出すと止まらなくなり、

稼ぐ方より、遊ぶ方が多くなる。小遣いはかかあ様が働いてくれるが、

次第に昂じると自分の稼ぎや、かかあどんから絞めあげる銭では

間に合わなくなる。

こういう手輩が文化から文政年ころに多くなり、小遣い銭に困ると悪事を

働くようになり、除帖無宿者が氾濫するようになるが、

それは大きな女働きがあって農村が経済的に大変豊かだったからである。

女が一生懸命はたらいた為に、無宿者が生まれた事になる。

                          つづく


「縞の合羽に三度笠」

縞の合羽の高級品は、太織縞を二重にして中にくず繭の真綿を入れて

縦に細かい縫い目を入れたもので、今でいう、サバイバルコートであるので、

防風、防寒に優れていて、野宿するのに最適で、他方、振り回せば防具になったし、

細かい縫い目に真綿が入っているので防刃の効果があったのである。

語呂良いので三度笠と言ったが、実際には渡世人は妻折笠を使用したのであった。

蛇足であるが、普及品の合羽は、木綿生地に木綿の綿を入れたが重く、濡れると

乾燥に時間を要し宿を使用できる堅気が利用したが、無宿人は宿に泊まれなかった。

 

 


真説 国定忠治 其の弐

2013年08月17日 | 近世の歴史の裏側

 

俺には小松五郎という強え味方があったのだ」と,

国定忠治は、赤城山で大見栄を切った。そばには板割の浅と日光の円蔵が

ひざをついて控えていた。折からの名月で、忠治が振リかぎした

小松五郎義兼の銘刀は、霜のごとくかがやいて美しかった。

沢正以来、芝居に映画に、名月赤城山の場面は

多くの人になじみ深い。国定忠治が愛刀小松五郎を帯して大活躍し、

岩鼻の代行所に子分をひきいて斬り込み、悪代行松井軍兵衛を斬った、

と信じて疑う人はいないのである。

 だが、伝えられる忠治の話にはどうも墟が多くていけない。

大活躍したのは事実であるが、これは一人か二人の百姓や町人を

相手に、大勢の子分と一緒になっての乱暴ろうぜきの大活躍である。

斬り殺したはずの松井軍兵衛なる者は、岩鼻大官所には

後にも先にも居たことがなかったのである。

 また、銘刀の作者と称される小松五郎義兼という刀工も、

実は日本全国どこにもいないのである。

これは野鍛冶の義兼作を間違えて伝えたものと考えられる。

小金井村には、明治元年作「青竜子義兼」の銘刀が残っているので、

確かに義兼なる刀工は実在したが、小松五郎とは称していない。

 義兼は加賀の国の刀工であったが、名工であっただけでは飯が食えなかった。

その為、各国を渡り歩き、あちこちで居候し、笠懸村に来て住み着いた。

腕の良い名工であったが、刀の注文はあまりなかったので、

ナタやカマ、クワなどの農具を作っていた。いわゆる野鍛冶である。

だが義兼作の刀も、ようやく忠冶によって名を上げ、

天下の銘刀となったのである。

 

 

 沢 正

 さわだ‐しょうじろう 【沢田正二郎】

 [18921929]俳優。滋賀の生まれ。文芸協会・芸術座を経て、新国劇を創立。

剣劇で大衆的人気を博し、「沢正(さわしょう)」の愛称で親しまれた。

その後、辰巳 柳太郎、大山克己と引き継がれた。

 


真説 国定忠治  其の壱

2013年08月16日 | 近世の歴史の裏側

 

 上州無宿国定忠治を侠客とするものと、無頼の極悪人であるとする説があって、

未だ、 忠治をめぐる論争は絶えるところがない。

私は生まれも、現在の住まいも国定の近く群馬県である、忠治の地元であるから、

早くから忠治の資料には注意していた。

忠治は二十歳のころから数年の間、境町在百々(どうどう)村に居たと思われるが、

関係するところが甚だ多いのである。

ところが資料を集約すると、侠客とするよい面が次々になくなって、

次第に卑怯者、悪人忠治の姿が浮かび上ってくる。

国定村の近く、伊与久村の儒家深町北荘の手記によれば、

北荘には嘉永四年の「博徒忠治伝記」五冊の著述があるが、

これも国定忠治死後の記録である。北荘の筆録は多く散逸して、

この国定忠治伝現在は伝えられないが、もしこの五冊があるならば、

実際にその行状を見聞した地元の手記として、忠治の実状をかなり詳しく

知られたであろうが惜しい限りである。

しかし北荘には他に「国定忠治引」という文章が残されている。

忠治引というのは「忠治のこと」という意味で、その中に忠治が、渡瀬川上で

酒銭をかすめたことや、昼は山にかくれ、夜になると徒卆を引いて通街を侵し、

処女は暴にあって婚義を失い、販婦は節を失って泣く、という行状が記されている。

一人の百姓は、抜刀する数人の無頼の徒に、決してかなうものではなく、

昼間はかくれていて、さながら夜盗山賊の所業である。

斯様に国定一味は日夜非道暴戻を重ねたわけで、付近の百姓町人は

震え上って怖れたのである。

忠治の行状を調べると、その大部分は悪業である。

娘を救ったという、いわゆる信州の山形屋藤蔵一件や、岩鼻の悪代官の、

松井軍兵衛を斬ったというのは、孰れも作り話しである。

そして相手を倒すとき、ほとんど国定忠治自身は手を出していない。

売り物の度胸は一体どこに失ってしまったのであろう。

したがってその行跡は悪業だらけで、悪人忠治が成り立つわけで、

真実を求めようとする立場から、私は国定忠治の名は長岡忠治であるが、

忠次、忠次郎などいろいろに呼ばれているが、忠治というのが正しい。

生まれたのは没年より算すると文化七年で、国定村長岡与五左衛門の次男である。

三人兄弟であったが、長兄の名は知られず、つぎが忠治、その弟に友蔵というのがいて、

この友蔵の子孫が今にある。巷説には父与五左衛門は、村の名主で豪農等とするが、

それを示す資料は全くない。

与五左衛門は文政二年、忠治十歳のとき死んだとされるが、

享年其の外伝えられるところはない。

清水次郎長はこの翌年に生まれている。

羽倉外記「赤城録」によれば、文政九年、忠治十七歳のとき賭場の争いで相手を

殺害したという。そのため村に居ることが出来ず、出奔して川越にいた大前田栄五郎の

ところに身を寄せた。栄五郎は赤城下大前田村の無宿で、やくざ者で召捕られて

佐渡流しされたが、厳重な見張りを破って島抜けして逃げていたのである。

其の為、栄五郎は両手が凍傷で有った。

大前田栄五郎の厄介になって居たが、一年ほどして栄五郎は、もう詮議も

なくなったから、上州に帰れと言い、文政十年に百々の紋次のもとに遣わしたとされ、

既に此処には、三ッ本の文蔵や、境川安五郎などいう、

名うてのならず者が集団していた。

又、先にこの地は、島村一家伊三郎の地盤であったから博徒ではなく、

その筋では、ならず者集団だったわけである。

 

 

 百々(どうどう)

百々は「どうどう」と読むが、語源は、十十(とうとう)であって10×10で百に成る訳である。

地名としては県内旧北甘楽郡にあり、また三河国や下野にもある。

水が流れおちる響をいったもので、物音からとった地名は非常に珍らしい。

 

国定忠治の親分といわれた百々の紋次は百々の羽鳥氏で、経蔵寺墓地に、

絞次の石塔と称するものがあり、村内に絞次屋敷と呼ぶ場所もある。

紋次の戒名は花愉快光居士、花という字は博突打の戒名につける字で、

堅気の人には決してつけない。しかしこの石塔の人物が紋次であるか、

また紋次という侠客が実際にいたかどうかは、いまだにわからない。

 慶応四年伊勢崎藩で百姓の身分格式を書出させたが、

そのとき百々村では、新井平八が御取締支配御家中分格、

羽鳥伝右衛門が帳外苗字御免、岡崎最前が苗字御免で、

この三人が、普通百姓より別格であった。帳外というのは

一般の百姓とともに五人組帳へは記さない別格の待遇をいったものである。

 

 

これは、余談ですが、私の父は江戸屋敷で生まれで学校が大嫌いで、

 学校には行かず、寄席、劇場、撮影所などで青春を過ごしたらしい

幼い時、どうして「どうどう」と言うのか、尋ねたら

昔、あの地域は馬方が多く、いつも馬を引く時に「どうどうと」言っていたからと、

教えてくれた。

万事このような父で、壱百弐歳で帰幽したが、前日まで冗談を言っていた。

父であったが、一様我家系は室町時代から、苗字帯刀を許されていた。

 

 笹沢左保の小説,


 

『木枯し紋次郎』(こがらしもんじろう)は、百々紋次をヒントに

 笹沢左保が名付けたものでフジテレビ系列で

 197211日より放映されたが、舞台は天保年間。

 上州新田郡三日月村と架空の場所になっている。

 

 

 

 


上州 八木節はいつ、何所から? 最終回

2013年08月15日 | 大正から昭和へ

 


 昔は「やんれい節」などと呼ばれた、口説きの刷り物などをときどき見ることがある。

それは簡単な四・五枚綴りの小さいもので、はなはだ粗末なもののために、

今日の人はほとんど注意しないが、上州にはこのような刷り物が

たくさん伝えられており、それがたちまち新作物として、

盆踊りなどに唄いつがれたわけで、忠次物は別として、大体は心中物などの、

哀れな物語りをつづった物が多い。刷り物は江戸で作られるものが多いが、

そのため上州方面の物語りは、本当とウソの混じりで、忠次くどきにしても、

史実に合うところは少しもなく、江戸の机の上のいいかげんな作り話であるが、

面白いことには間違いない。

本来口説きは我が身の哀れをなげいたのがはじまりで、

いま調子のよい八木節盛行のとき、

まだ木崎節や赤わん節という口説きは、今日もうたい継がれていて、

拍子抜けのした唄い方はまだ無くなっていない。古くからうたい継がれたものを、

大事にしようという立派な人が、まだひそかに郷土芸能伝承として行なっているが、

この古い口説きは、さらに後世に伝えたいものである。

口説きから八木節へ、それは昔から三百五十年の歴史があるからである。

 

 

追記

今回、盆踊りの季節でもあり、あえて八木節発祥の地について、記載させて頂いた。

約半年間、のべ30人ほどの方々に直接会い、一つ一つ検証して

数冊の八木節に関する著書も参考に纏めてみたが、今回の記載内容が、

墓石、関係者方々の話を総合してみて私の今回の記載は真実に近い

八木節の発祥の地を、実証できたと思います。

また、初代堀込源太のその後については、諸説があり史実に合う、

検証が出来ませんので、今回で最終といたします。

今まで、八木節の発祥について諸説があり民謡、郷土史研究家の

諸先生が異なる見解を述べておられますが、私のこの記載内容で、

その終止符が打たれれる事を、切に望みます。

そして、現在も日夜、八木節に打ち込まれて精進されている方々の

増々のご発展を心より望むものであります。

今回の、この記載内容についてコメントが御座いましたら遠慮なく

コメントを頂ければ幸いです。

                        完結