洞の祠 ―黒龍の抄―」
祠の中に敷き詰められている御影石の中央は湧き水がたまり、池の様相を呈している。
池の中央に一段高い御影石の台座があった。
きのえは暗い祠に瞳を馴染ませ、台座に目を凝らした。
何かがいる。
誰かがいる
見えた事を確かめる為にきのえは池に足を踏み入れた。
池の底は浅くなだらかに台座のある中央に降っていた。
中央の台座に手をつくと、えいっと池の底をけり台座によじ登った。
御影石の平面は広く、人が五、六人は裕に寝転んでいられる。
その中央に男が片肘をついて上がってくるきのえを見詰ていた。
「おまえ。祠の神かや?」
きのえは自分を見つめる男に尋ねた。
とたん。
男はぎょっとした顔を見せた。
「おまえ。わしがみえるのか?」
みえるもなにも。
頷く少女に男はさらにたずねた。
「どう、みえる?」
「男の人じゃ」
黒龍が映している人の姿のままにみえているというらしい。
神の姿を見る事が出来る者は数少ない。
そんな中でも童が良く神の姿に触れるのは心に邪気がないせいだろう。
綺麗な心を持っている者だけが真実の姿に触れられる。
少女がもしこの神の姿を異形の者として、映し出したとしたら、
少女の中にかげりがあるせいである。
が、あんずることがない。
少女の心は一層無垢なものだった。
「さむうないのか?」
御影石は暗い祠の中で一層、冷え切った塊でしかない。
その台座の上に寝転ぶ男は体がひえぬのだろうか?
「さむうはない」
それよりも池の中に足を踏み入れた少女が、
春の雪解けの湧き水の冷たさに震えているようだった。
こっちへくるがよいという黒龍の言葉にすなおによってくる。
少女を包んでやるように抱きかかえると、
「おまえはあたたかいの」
と、自ら体を寄せ付けてきた。
疑いもない。
暖めてやろうと言う黒龍の心を真向こうから悟る。
よほど大事に育てられた娘であろう。
疑心のかけらも見せない幼い童心のままに伸びやかに育てられている。
「おまえは村のものか?」
祠の外に小さな村がある。
「そうだ」
「とうさまは?」
「おるよ」
「かかさまは?」
「か.かさまは」
僅かに言い淀んだ。
「おらぬのか?」
「かかさまは、きのえが小さなうちにやまいでしなされたそうな」
どうやらそれが自分の名前のようである。
確かめてみる。
「きのえというか?」
「うん」
頷いた。
「かわいらしい名じゃの」
「そうか?平仮名できのえとかくんじゃ」
「だれにつけてもろうた?」
「とうさまじゃに」
「とうさまか」
「うん」
きのえ。江には川の水も寄せ来る。流れ落ちた末は海の波も寄せ来るが「江」。
きのえ。気の江。
この少女の心良い無垢な気に幸いが流れ集まり、
またそれに魅せられ心を寄せ来る者がいる。
「良い名じゃ」
「ほうかの?」
「どうした?きにいらんか?」
「男のような名じゃに」
「はは?」
「なんでわらう?」
少女の聡さが手痛い。
「おまえの性は男勝りじゃ。おうておるわ」
むっと少女が黒龍をにらみすえた。
「ほら、みろ」
神を恐れもせず果てには平気でにらみすかす。
「わ、われは」
少女が黙った。
「なんだ?」
聞いてみると
「われの夢をしっておるかや?」
「さあ?なんだろう?」
とわずがたりに少女は語りだす。
「われは花嫁になりたいに」
「なるほど」
こんな夢を持つ少女のどこが男勝りなのだといいたいのだ。
それなのに名前は男のようだとむくれている。
「花嫁か」
「よかろう?かわいかろう?きれいじゃろう?」
白無垢の花嫁の姿をどこで垣間見たのか、少女の憧憬があふれ出す。
「そう、じゃの」
ふと少女の先を読んだ。
少女の夢がすぐにかなうものか。
少女の夢をかなえる物が誰か。
教えてやろうかとついと読んだ。
その読んだ先に黒龍は・・・。
黙った。
不幸と言う筋合いではない。
むしろ、人の世で言えば紛れもない幸運と言われる筋合いかもしれない。
だが、黒龍は読んだ事を少女に告げる事が出来なかった。
何故なら白烏帽子の花嫁の横に並ぶ男がこの世のものでなかったから。
そして、見せられた先を黒龍も信じられなかったから。
『わしがこの童の夫になる?』
一笑に付した世迷言に出来ないのはなぜだろう。
既にこの少女の無垢さに魅せられているせいだとは認めがたく、
かといって自分の予見が外れているとは思いがたかった。
『わしがこの童に・・惚れる?』
どう見ても十二,三。
子供も良いところである。
見っとも無いをとおりこして、既に信じられぬ領域である。
「たわけておるわ」
「なん?」
「なんでもない」
呟いてしまった独り言がうとましい。
黒龍はもう一度小女を見詰なおした。
痩せた細いからだ。
背こそ人並み以上に高いがどこにも女を匂わすかけらもない。
そんな、少女に、そんな子供に、己がほたえくるう?
信じようがなくて、黒龍は笑うしかなかった。
第一、己に関る事は読めない。
少女の無垢な憧憬が黒龍の心が映り込んだとしか思えない。
少女の夢をかなえてやりたいという心が妙な読みを生じさせたのだ。
「なにをわらいよる?」
「いんやあ」
「なんじゃあ?」
「わろうなよ」
「う・・うん」
「おまえが、このわしの花嫁になるというから・・・」
「さだめをよんだかや?」
「いんや。そうではない。そうではないから、おかしゅうて・・・」
「おまえの嫁か?」
「そうじゃ」
おかしくておかしくて黒龍は笑った。
だが、少女は少しばかり、かんがえていた。
「運命がそうゆうなら、なってやってもいいぞ」
黒龍を見詰返した少女の瞳の中の決心は既に定まっていたと言って過言でない。
少女の心を登り詰めさせるとも思わず、明かした戯れでしかなかったと
言い訳するに、少女の方が真摯すぎた。
この真摯さにいずれほだされると気が付かぬまま黒龍は少女の出入りを赦した。
いや。
知らずの内に少女に惹かれた黒龍は既に断る心をうせ果てていたと言うべきかも知れない。
「おまえは?」
やっと、少女は黒龍の正体をたずねた。
「わしか?」
くすと笑い
「龍、じゃというて、しんずるか?」
「う・・ん」
本人がそういうならそうじゃろう。
「だが。などか?」
人の姿でおる?
「長きものは、これがらくでな」
これを人の姿と思うは人の常である。
神の姿を人こそが擬えている。これが本来である。
そうとも知らず神に順ずる黒龍の姿を人の倣いというが既に笑止である。
が、どちらでも良い。
「おまえがわしの本当の姿を見たらおそろしゅうて、よう、側にもよってこれんわ」
「そうかの?」
小首を傾げた娘は既に黒龍への恋の繁茂に落ちている事さえ知らぬ。
この先、二人の運命を大きく変える者が現れるまで、
既に恋の術中にいることさえ知らぬほど、
きのえという存在は黒龍には子供にしか見えなかった。
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